子供の価値観と大人の価値観の違いの二つめである。


 子供の世界では、何でも善悪二元論で語られることが多い。

 「良いか」「悪いか」、つはりは「白か黒か」の判断である。

 善悪といわなくても、有効か無意味か、損か得か、好きか嫌いか、楽しいか辛いか、すべてはっきりしているのである。


 それに対して、大人の世界、すなわち一般に私たちが暮らす世界は、白か黒かでは割り切れない、複雑で曖昧な部分がおおく存在するのである。それは矛盾ともいえるし、また不条理ともいえるが、それが現実の世界の姿である。

 たとえば、「良くないことはわかるが、それは人情でしょう」とか「正論であるのはわかるが、何とも割り切れない」といった言葉が語るように、すべての価値基準が時としてファジーに変転する。


 子供の世界は狭い世界である。それに対して大人の世界は広い世界である。

 広い世界に生きていれば、様々な文化の違いが価値観の違いを生み出し、物事のとらえ方にも幅が出てくるのは当然だろう。

 また立場が異なれば、当たり前のように考え方も違ってくる。


 よく、国際化社会に対応した人材の育成を子供の時代からなどという掛け声もあるが、未だもって子供の世界は小さな世界に閉じ込められているような気がしてならない。

 そして、最近などは、ますます子供たちの世界は「子供たちの世界の価値観」によって回り出している気がしてならない。

 自分たちの友人や仲間以外の世界は、もはや彼らにとっては異界なのだ。

 これって、危機的にまずい教育環境ではないだろうか。


 一つの例をあげよう。

 早朝の車のまったく通らない道路、そこで横断歩道は赤のランプがついていた。

 ある男が周囲を見渡して、迷わず横断歩道を渡る姿が目に入った。

 するとそれを見ていた子供ずれの親子が怪訝そうな顔をする。

 「どうして信号が赤なのに横断歩道を渡るのか?」ということらしい。

 日本では、このような局面においては、ほとんどの人々は信号が青に変わるまで待つのだろう。

 しかしアメリカなどでは、ほとんどの人が躊躇なく渡るだろう。

 車がいないのに信号機が変わるまで待っている者は、マヌケ、うすのろと思われるだろう。

 信号機という者は、歩行者が安全に移動するための道具であって、歩行者を縛り付けるルールではない、という価値観が一般的だからだ。

 ごく幼い子供ならばいざ知らず、ある程度の分別のある世界の子供ならば、同じように考えて周囲を点検してからごく自然に渡っていくだろう。


 子供の価値観は窮屈だ。

 それは大人たちが、「世の中は矛盾に溢れており、何事も絶対に正しいなんてことはない、広い視野で考えなさい」と教えてこなかったからだ。


 窮屈な価値観ゆえに「いじめ」」なんて問題も生じるのだ。

 しかも「いじめを苦にして自殺する」なんて、日本以外の国では考えられない。

 だって、「自殺するくらいならば、とっとと学校をやめるなりして、合わない価値観から逃げればよい」のだから。


 これは大人の社会にも少なからず影響を及ぼしている。

 「過労死」、これもいじめと同じ。「何も奴隷ではあるまいし、死ぬまで働くならば、とっとと仕事なんてやめてしまえばよい」のだから。