子供の社会についての話である。

 ところで、一般の社会において、持てる者と持たざる者が存在するように、子供の社会においても、持てる子供と持たざる子供が存在する。

 わかりやすく表現するならば、好かれる子供と好かれない子供とも言えよう。


 好かれる子供は、子供の特性を余すところなく備えたような純粋無垢な子供であり、好かれない子供は、まさに子供らしからぬ子供ということになろう。


 これは、大人ににとっての子供という意味合いと同時に、子供同士においても当てはまるような基準であろう。

 子供同士ならば、さらに溌剌として爽やかだったり、もっと具体的にはスポーツが得意だったり、面白かったりという要素が加わろう。

 スポーツが得意とか、話が面白いなんて、成人してからは屁の役にも立たないが、子供の世界では重要な要素なのだろう。

 また容姿が見栄えよくスマートだったりということもあろう。(これについては成人してからも少なからず重要な要素かもしれない)


 しかし、同時に子供というものは、残酷な一面も併せ持つものである。だから、いじめとかいう問題も生まれるのだ。

 そして、弱いものをいじめるような腐った子供が、一方で素直で明るい子供だったりして、難なく周囲の状況に合わせたりしているから、問題はより複雑化する。


 さらに、もっとも忌み嫌われる子供(これは子供からも先生などの大人からも)とは、子供のコミュニティーに属さないで子供の社会の価値観を持たない子供、すなわち大人一般の社会の価値観で思考し行動する子供なのだ。

 そもそもにして無知な子供、そして愚かな大人は、子供の社会にある種のユートピアを求めているので、この手の子供に対しては強烈な反感を抱く。もちろん、その根底には、彼らの日常生活における満たされないルサンチマンが首をもたげているのだ。


 そんなわけで、当然のことながら、私は好かれない子供だった。つまりは持てない子供だったのだ。

 だから必然的に子供社会に対して良い思いがあろうはずはない。


 特に自分の家族以外の大人には嫌われていた。たぶん多くの大人たちからは、「可愛げのないガキだ」くらいに思われていたのだろう。

 別段、私が何か悪い事をしでかしたわけではない。私はひねくれた考えをする子供でもなければ、反社会的な志向の持ち主でもない。好奇心が旺盛な知的な子供だった。

 また、よく残酷な子供たちがするように小動物や虫を殺して喜ぶような手合いでもないし、いじめられていたり孤立していたりした子供にも、分け隔てなく優しく接するような、いたってまともな子供だったのだ。

 それでも周囲からは浮いていたし、好かれてはいなかった。

 まわりの人々から好かれるようにふるまわない存在、一定の価値観を共有しないことこそが「悪」なのだ。

 子供社会においては、大人の価値観は良しとされない。でも、子供はいやおうなく成長して、思春期を迎える。そこで今までの変な価値観と現実世界との落差に唖然として、ぐれる奴はぐれるし、折り合いをつける奴はうまく折り合いをつけるのだ。

 私の場合は、最初から子供の価値観などなく、大人の価値観でいたために、世間で俗に言うところの(反抗期)というものはなかった。年齢を重ねるごとに、素晴らしく可能性の満ちた世界が果てしなく広がっていく様子を楽しく体験した。


 それでも子供時代は、その行動も周囲の環境も、さらには情報も限定されているために、そこで蔓延する価値観には強烈なものがあり、ほとんどの者達はこの海の中を漂流していく。

 このようなあり方は、たぶん現在の子供社会においても続いているのだろう。いや、もっと強まっているようなきがしてならない。

 これで「個性をはぐくむ教育」とか「グローバル社会に対応する人材育成」とか、ちゃんちゃらおかしい話ではないか。


 間違った価値観の枠にはめ込み、そのくせ社会の矛盾に関しては目をつむる、子供特有の領分、この異常なあり方にこそ、現在の日本の教育の問題点があろう。


 では、次回、問題となる子供の価値観と社会一般の価値観のどこが大きく異なるのかについて言説していきたい。