昨日、とあるイベントで、たまたまサウジアラビアの高校一年生に出会った。
イスラム教を信じているということなので、イスラム教についていろいろと話した。
私たち日本人にとって、イスラム教はキリスト教や仏教、もちろん神道などに比べて、なかなか馴染みの薄い宗教だ。
私自身も薄い知識しかない。
むかし歴史の教科書で勉強した、「カリフ」とか「スルタン」とか、さらには「スルタン・カリフ制度」とか、「シーア派」とか「スンニ派」とか、おぼろげながらの知識しかないのだ。
彼に指摘されたことだが、現在のイスラム教には指導者となるカリフ(キリスト教のローマ法王のような存在)はいないとのこだ。
これには驚いた。
教祖様にあたる存在が欠落しているのに、これほどまでに全世界の人々を惹きつけていることは驚異と言わざるをえない。
そしてトルコやサウジアラビアなどの国家は、いずれも親日国家であるという。
多くの日本人は、そんなことすらも知らないだろう。
日本にいると各メディアから、「イスラム~狂信的なテロ」という間違ったイメージが流されているが、全世界のイスラム教人口からすると、変に暴走する輩は一部というのも当たり前の話かもしれない。
これも知識と情報の欠如から生み出される偏見であろう。
狂信的というならば、戦前の神風特攻隊など、まさに国家が組織的に実施したものであるから、こちらの方が歴史的には恐ろしい事態とも見られるかもしれない。
それにしてもイスラム教にまつわるイメージは、どことなく偏屈で禁欲的な固さがあるが、これも対極に想定されるアメリカ的な大量消費の物質的な文化と対称されるゆえでもあろう。
日本の社会にもすっかり根付いたクリスマスに象徴されるような喧騒たる消費文化に反するものは、どれもマイナス・イメージが押し付けられてしまうのだろう。
まぁ、ここで文化論を展開しても仕方がない。
私がイスラムに興味を抱いたことは確かだ。
これからの新しい世界には、無視できない文化的なキーワードだと思う。