リベラルという事柄について考えてみよう。


 個人の自由を尊重する考え方がリベラルという概念の基本である。

 私はリベラルな人間である。

 共同体的な束縛を嫌う、グローバルな考えの持ち主である。


 例をあげる。

 安倍政権が推進する「カジノ」の是非について。


 カジノを社会悪として大反対する人々(政治勢力)がいる。

 その理由は様々なものがろう。

 私はカジノに関しては反対ではない。良いのではないかと思う。(まぁ、積極的に賛成ではないし、自分の家の近所にカジノができることは嫌だが)

 

 ところで、私はギャンブルというものが大嫌いだ。パチンコ、麻雀、競馬、どれも一切かかわりたくない。

 そして、その理由は道徳的なものではない。

 そもそもギャンプルは楽しくないし、結局は損をすることを、統計的にも歴史的にもわかっているから、まったく手を出さないのだ。

 結局は儲からないことがわかっているならば、楽しいはずもあるまい。

 株式などの投資もギャンブルだと言う人もいるが、これは違うと思う。

 買わないリスクもあるし、機会損失のリスクも存在する。たしかに安全であるはずの企業(たとえば東京電力やシャープなど)も時にはぽしゃることもあるが、それはリスクの範疇だろう。


 このように私はギャンブルは嫌いだが、カジノは容認する立場だ。

 自分は嫌いだけれど、好きな人々は自由に楽しめば良いではないか。それで外国人観光客が喜ぶのならば結構なことではないか。

 カジノで楽しもうが、たとえ深みにはまって破滅しようが、そんなことは個人の自由であろう。

 社会がとやかく言うことではない。


 カジノを例にあげたが、もっと本質的なこと、社会にはびこる様々な規制(当然、経済的なことが多いが)は、なるべく少ない方が良い。

 自由主義的な考えなのだ。これがリベラルということの本質だろう。


 しかし不思議なことに、日本の国においては、「リベラル」というと「左翼」的な意味合いを帯びてくるのである。

 本来、社会主義的な考えとリベラルは相いれないはずなのだが、リベラル勢力結集とかいうと、なぜだか革新系の有象無象の集結になってしまう。

 多くの人々にとって、この矛盾は大変に不幸なことだ。


 たぶんリベラルを自認するほとんどの人々は、先のカジノについても反対の立場であろう。