現代社会に蔓延する人々の怒りの本質とは、いったいどのようなものなのだろうか。

 

 街中で街頭活動をしていると、老若男女を問わず「怒っている人々」に出くわすことがあることは、前回のブログでも書いた通りである。

 一体全体、彼らは何に対して怒っているのだろうか。

 当然、その怒りの理由や対象は、その人その人により多様なものであろう。しかし、おおまかに一般化してみると、現代社会に潜む「闇」の部分が見えてくる。


 怒れる人々とかいうと、かつては若者の代名詞であった。最近の若者はめっきり大人しくなり、あまり怒りを持たなくなったとも言われるが、現在でも依然として怒れる若者は多い。

 それに加えて、中年や老人といわれる人々にも、若者に劣らず何かに腹を立てている人々が多く見受けられる。


 何に対して怒るのか?


 まず1)第三者や他人に対して怒る、2)社会に対して怒る、3)自分に対して怒る、いろいろあるだろうが、前回は1)の例だったので、今回は2)と3)について考えてみたい。


 社会に対する怒り。この世の社会というものは、いかなる時代においても多くの矛盾をはらんだものであるし、社会的な不公平や悪徳がなくなることなどない。

 そして若者は常にこの社会的な矛盾に対して腹を立てるものだ。若者の純粋さと言ってしまえばそれまでだが、ジェームス・ディーンの「理由なき反抗」を引き合いに出すまでもなく、この手の怒りは古くから文学や映画のテーマになっている。

 しかし最近の日本社会を眺めれば、この手の社会に対する怒りは減少しているように思われる。特に若者は怒らなくなった。

 数十年前の学生運動が盛んだった頃の映像などを見ていると、当時の若者はどうしてこんなに社会に対する怒りを持っているのかと不思議なくらいだ。


 それに対して、現代の若者を中心に増えているのが、自分に対する怒りだ。

 自分に対する怒りといっても、自分の愚かさや過ち、間違った選択についての後悔といった怒りではない。

 現在の自分の境遇や自分を取り巻く状況に対する怒りだ。街角での会話にも、新聞や雑誌、ネットでのコメントや言説にも、この手の怒りが満ち溢れている。

 それは「どうして物事がうまくいかないのか」という不満めいた怒りである。そしてその怒りは社会のあり方に向けられることはない。現存する社会的な矛盾ゆえに、現在の自分が良くない状況に陥っているのだという考えには至らないのである。

 社会はけっして悪くない、悪いのは自分の状況だ。私たちの暮らす社会というものは、そこそこには素晴らしい。幸福そうな人々も多い。素晴らしくないのは、この社会の中での自分のポジションなのだ。

 だからと言って、自分で状況を何とか改善しようとは思わない。ただ怒るのみだ。「自己責任」という言葉では、物事を考えようとはしないのだ。

 自分は悪くない。かといって社会が悪いわけではない。このどうしようもない状況から怒りのエネルギーが生まれる。そこには解決の糸口がないから厄介だ。


 とある若者と話したことがあった。

 「腹の立つことばかりで、怒ってばかりいる自分が嫌になる。どうしたらいいのでしょうか?」

 この問いに対して、私はこう答えた。「それならばお金を稼いだ方がいいよ、腹が立つのは自分の思い通りに物事が進まないからだから、そしてお金がたくさんあれば、この世の中は大抵のことは思い通りになるものだ」と。

 すると彼は怒りだした。「お金がないことが最大の怒りの原因なのだ!」と言い返してきた。

 何とも酷い話ではないか。現代社会においては、お金がないこと(貧乏)は、嘆きや悲しみの対象ではなく、まさしく怒りの対象なのだ。

 そしてこの怒りはきわめて個人的なものだ。社会全体が現在よりも豊かであって欲しいのではなく、自分が金持ちでありたいという個人的なものだ。

 だからこそ、嘆きや悲しみではなく、まさしく怒りなのだ。


 お金について例を出したが、これの他にも、「どうして私は美人でないのか」(容姿の美醜など相対的な価値観なので、世の中には美人は数多く存在する)とか「どうして私は運がないのか」(幸運にも宝くじで2億円を獲得する人は全国には確実に存在する)とか、様々な観点から怒りは生まれていく。

 こんなことで怒っていたら、本当に苦しく、埒があかないのだが、この種類の怒りは強い。


 宮部みゆきの「名もなき毒」の中でも、この種類の怒りや怒れる人物像が的確に表現されている。どうやら、このような怒りの片鱗は幼い子供のころから培われるようだ。

 

 そしてこの手の怒れる若者は、やがて歳を重ねて、怒れる中年や怒れる老人と変貌していく。もしかしたら数十年ぐらい前から、その変貌は始まっており、日本全体に怒れる人々が増殖しているのかもしれない。