昨日のブログにおいて、板橋の温泉に出かけたと書いた。

 すると「誰と出かけたのですか?」との問いをもらった。

 答えは、「一人で出かけた」である。


 多くの人々にとっては、外食にせよ、このような温泉にせよ、一人で行くということが想定しにくいようだ。

 私は、遊びでも、旅行でも、一人で出かけることがある。

 これは何も孤独を愛するとか、人と過ごすのが煩わしいとかではなく、たまたま相手がなく一人だったということにすぎない。

 つまり一人でいること、一人で行動することが、特段に苦痛でないだけだ。


 それにしても最近の人々、特に若い人々は、一人でいること、孤独を嫌がる。

 それもそのはず、常にボタンを押せば即時につながるような、インターネット上の仲間が大勢いるのだ。

 朝起きても、昼食を食べていても、夜ベッドの中でも、常にネットにつながっていようとする若者も多い。ひどい例(もしかしたらこれが平均的なレベルなのかもしれないが)では、一日100回以上、メールやツイッターやら、フェイスブックやらに接続しているという。

 本当に一人になり、孤独の中で、何かを考えたり、想像したり、悩んだり、期待したり、夢を見たりという時間が、まさしく物理的に失われようとしている。

 常に何かを発信したり、何かに対してコメントしたり、何かを「いいね!」としたり、とにかく忙しい。そして、その何かというのは、たいていの場合はくだらないことだったりする。

 単にクズ情報の中を泳いでいるに過ぎないのだ。そして本人はそのことにも気が付かない。たとえクズ環境でも、自分ひとりが孤独になるという不安よりはましなのだ。

 また、直接的に誰かしらとつながらなくても、とにかく何かの情報を世界に求めて、暇さえあれば何時間でもネットサーフィンにふける。世界の最新の情報につながっていることに、安心するための苦行的な行為ではあるが。

 こうなってくると、もはや麻薬である。孤独から逃れるための麻薬の役割を、現代のインターネットは担うのだ。しかも麻薬より手軽で安価である。

 よくネットを活用しだした議員達が、誇らしげに「自分の発信力がどうの」とか書いていることがあるが、これも無意味なことであろう。


 情報過多、特に他者と結びついた情報の洪水は、自らが思考し、認識し、世界観を構築するために必要な一人の時間を奪い去っていくのだ。


 よくインターネット普及の功罪の悪い部分で、「生身の人間とのコミュニケーション力が低下する」とか言われるが、それよりも「孤独のうちに自己を見つめる機会が奪われる」という罪の方が重大なような感じがする。