私が幼い頃、祖父が話していたことを思い出した。よくパイナップルの缶詰(いわゆる「パイ缶」といわれるやつ)や桃の缶詰を食べながら、「これはかつてはとても高価なものだったんだ」と語りかけていた。
美味しそうに缶詰のパイナップルや桃を食べる祖父を眺めるのが楽しかった。私にしてみれば、缶詰のフルーツは甘すぎて、さほど美味しいものとは思わなかったが、そんなものかと祖父の話を聞いていた。
どこかで見た、ある映画のワンシーンを思い出す。終戦後の日本での若い男女の恋愛を描いた映画だった。その中で女性が男に逃げられて茫然と立ちすくむ場面があった。男に食べさせようと買ってきたパイナップルの缶詰をいくつもどぶ川に投げ捨ててしまう。
それを見ていた労務者風情の通行人達が彼女に向かって、「何を捨てているんだ?」と問いかけるのだ。彼女は心ここにあらずといった感じて、「パイ缶」と呟く。
すると周りで眺めていた男たちが、我先に川に投げ捨てられた缶詰を拾おうと川へと飛び込んでいく。
当時の社会では、数個のパイナップルの缶詰は、それほどまでに(汚いどぶ川へ飛び込んでまで拾おうとするほどに)貴重なものだった。
最近では、そんなフルーツの缶詰を目にすることもなくなったし、食べることもなくなった。
おそらく味は変わらないのであろう。
先日、ある場所で、このパイナップルと桃の缶詰に出会うことがあった。友人が文房具を買いに行きたいといって付き合った100円ショップ。店内のカゴの中、この缶詰は一個100円で売られていた。
何と、安くなったことだろう。100円とは。
どんなに貧しい者でも、東京都の最低賃金制度から換算すると、わずか10分足らずの労働をもってして、かつてはあれほど貴重だったパイナップルの缶詰一つを手にすることができるのだ。
豊かな社会だ。世間では「格差がどうの、貧困がどうの」と議論が盛んだが、現在の日本は疑いもなく豊かな社会なのだ。
食べ物の話ばかりで恐縮だが、その方が身近でわかりやすい。
だいたい幹線道路沿いのファミレスのメニューに、「フォアグラのソテーをのせ」だの「トリフ風味の」だのといったメニューがあること自体、どう考えても変だと思わないか?
それほどまでに、豊かさになれてしまっているのだろう。