「BEの人」と「DOの人」、こんなタイトルでは、何が何だかわからないことでしょう。
人が他人を評価する場合にポイントとする点は様々にわたる。何をもって良し悪しを判断するかは、判断を下すそれぞれの価値基準による。ここまでは当たり前の話。
何をもって評価をするのか。ここで「BE」の人、「DO」の人という議論になる。
「BE」の人とは、その人の有するもの、容姿、学歴、経歴、社会的な地位、世間的な評判、お金があるなし、もっと広義でいえば、その人の能力や人脈などなどをもって、人物を評価する人々を言う。
「DO」の人とは、その人が何をしたか、つまりはその人の行動、狭義でいえば、その人が自分にとって何をしてくれたか、自分との関係性や親密性によって、人物を評価する。
ここに大きな違いがある。世間にいる多くの人々は、「BE」の人である。その方が分かりやすく、無難であるためだ。
しかし私はなるべく自分自身は「Do」の人になろうとしている。なぜならば自分の今までの拙い人生経験からも、「BE」でよりも「DO」で人を評価した方が正解であったからだ。
考えてもみよう。いかに金持ちであっても、まわりに対してケチであったら意味はない。いかに人脈があろうとも、その人脈を他の人々のために気前よく活用してくれないなら意味はない。能力だって、そうだ。その素晴らしい能力を使い惜しみするような人物ならば意味はない。
ましてや見た目のスマートさや巷の評判、地位や学歴、過去の経歴など、何をかいわんやだ。それはあくまでもその人の持ち物であり、自分の手にはこぼれ落ちてこないものなのだ。
どんなに素晴らしい人の後をついていっても、それだけで自分が素晴らしい人物になれるわけではないのだ。
もっと単純に考えてみよう。いかに美しい女性であろうとも、性格が破たんしているよりも心優しい方が良いに決まってる。さらにはどんなに性格が良くて八歩美人であっても、自分に対して優しくなかったら意味がないのである。
この考えを突き詰めていけば、「家族」、広義の意味では「ファミリー」ということになる。
家族の一員であるならば、どんなにダメなやつでも、身内にとっては良いやつになるし、優秀な他人よりも親しみもわくというものだ。
多くの人が「BE」の人として、他者を見ているということは、現代社会にあってはとりもなおさず「家族」の概念が希薄化しているということに他ならない。
これは悲しい現状だ。家族、ファミリーのつながりなくして、社会の健全なる発展など求めようもないのであるから。