今朝、馴染みのない駅の片隅でビラ配りをした。一時間ほどで120枚くらいのカードを通行人に配った。台風の予感を感じさせる、陰気な曇天だった。


 こんな活動をしていて、いったい意味があるのだろうか、とも思った。確かに砂漠に水を撒くような、遅々とした歩みである。一時間の活動時間が無駄に費やされるのではと感じた。

 はたして、よく知人ともそんな議論になる。無駄で非効率的な活動は意味がないのではという議論だ。活動していても懐疑的になることはある。それでも行動する。それはやらないよりもやった方がましという一点でのみだ。たとえ亀の歩みでも、止まっているよりはましという一点でのみだ。

 たぶん、今日の朝の一時間は大局的な意味では無駄なのかもしれない。そんなことはわかっている。だけど一時間のうちに、たった一人でも「頑張ってください」と声をかけてくれる人がいたなら、それで良いではないか。嬉しいではないか。それだけのことだ。

 確かに非効率的な歩みよりも効率的な歩みの方がよい。徒歩よりも新幹線の方が良い。当たり前だ。しかし自分の手に新幹線のチケットがない時は、やはり自分の足で歩いていくしかない。これも当たり前のことなのだ。目的地にたどり着くかどうかはわからない、しかし目的地を目指す以上は歩いていくしかないのだ。


 こんな考え方は20歳代の頃の自分は持てなかった。バカバカしいことはしたくなかった。何でもうまくすり抜けることが大切に思えた。そして上手に立ち回れない時は、ほとほと腐ってしまった。やる気をなくした。「結局はダメだ」と言い訳をしていた。

 本当は少しずつでも歩いていけば、現在よりか幾分かましな結果が出ていたにもかかわらず、辛くて現実から目を背けて止まってしまった。どうしても「ALL or NOTHING」の考え方しかできなかった。とても愚かだった。とても弱い人間だった。


 今は少しは賢くなってきたので、無駄と思われることでも、心を腐らせず歩みを進めている自分がいる。若い人たちには、このことを早く気づいて欲しい。そして私たちは、そして社会は、このことを小さいうちからしっかりと教育していくべきだ。自分に新幹線のチケットを買うお金がない時は、歩き出すしかないのだということを、優しく丁寧に教えてあげるべきだ。

 勤勉であること、これは日本の国がかつて持っていた失われた美徳だ。そしてこの美徳は、長い時間のうちには必ず報われる。


 効率的な結果のみを求めて歩むのではない。歩むべきだから歩むのだ。そこに道らしきものがあるから、歩み始めるのだ。


 子供の頃に見たドラマに「大草原の小さな家」というシリーズがあった。その中で幼い子供を抱えた父親は開拓地で井戸を掘る。いくら掘っても掘っても、井戸掘りは失敗続き、哀れなくらいの無力感が描かれている。それでも彼は黙々と続ける。神に祈りながら、黙々と寂しく井戸掘りを続ける。それがアメリカ開拓史の父親像だった。

 もっとわかりやすい映画の例をあげよう。ジェームス・ディーンの「ジャイアンツ」という作品がある。

 無名の貧しい若者が、同じように貧しい叔母からわずかな土地を譲り受ける。土地は痩せていて開墾できないし、放牧するには狭すぎる。

 若者は黙々とその小さな土地を掘り下げる。周囲の人々から馬鹿にされ蔑まれながら、たったひとり孤独に土地を掘り下げる。その活動は遅々として進まない、まさに無意味な行動のように思われる。

 ある時、地の底から黒い雨が天に吹き荒れる。若者は空を見上げ、両手を天に掲げて狂喜する。荒涼とした大地に石油が噴き上げたのだ。これはこの映画の前半クライマックス、私のもっとも好きなシーンだ。


 どうも感傷的なことを書いてしまった。


 何事もうまく成し遂げるにこしたことはない。それは否定しない。しかしそれが叶わぬからと言って、止まってしまうことはできない。強い意志をもって、わずかな歩みを進めること、これは私たちの時代が失ってしまった大きな美徳であろう。