「あなたの余命はあと数年です」と宣告されたなら、あなたならどうするであろうか。


 心残りであること、やっておきたいこと、会っておきたい人を求めるだろう。普段の日常生活に縛られている自分を思い切り解放して生きるだろう。

 また将来に向けての行動は捨てるだろう。たとえば貯金(子どもなんかがいる場合は別かもしれないが)とか資格試験の勉強とか、仕事のプロジェクトとか。

 もしかしたら自分がこの世に生きていた証を刻むための行動に邁進するかもしれない。


 こんな想像はしておいた方が良いかもしれない。


 ただ、みなさんはわかっているのだろうか。実は私たちは日々死んでいる、そして生まれれ変わっていることを。

 人間の細胞は日々死んでは生まれている。どんどん取り換えられているのだ。それによって生命は連続的に生きながらえているのだ。

 数十日前の細胞と現在の細胞とでは、そのものがすっかりと入れ替わっているのだ。数十日前の身体など消えているのだ。現在生きている身体は、数十日前のものとは、まったくの別物であるのだ。


 そして意識だって同じことだ。

 15歳の自分と、30歳の自分と、現在の自分とでは、考え方も経験値もまったく異なる。感じ方や指向性だって異なるのだ。

 人間は記憶があるから、意識や思考は連続していると勘違いしているに過ぎない。確かに何らかの思いは、過去の体験や考え方からは影響を受けるだろうが、それぞれは全く別のものである。


 私たちは、日々タイムアウトの状況において生きているのだ。

 「今日という時間はかけがえがなく、二度とやってこない」、これは言い換えれば「今日の自分はかけがえがなく、二度とやってこない」ということだ。


 私自身、自分の余命があと僅かであると想像してみた。普段からいつ死んでもよいように、また自分の好きなように生きているので、具体的な生活において何かを劇的に変えるということはないが、そんなことをつらつらと想像しているうちに、ある感情が湧いてきた。


 「世界はなんと美しく、愛に満ち溢れていて、生きることはなんと素晴らしいことか」との思いである。

 まさにベトナム戦役に旅立つ兵士たちに、ルイ・アームストロングが歌った「この素晴らしき世界」の心境である。


 人間は死を意識しないと、生を十分には受け止められないのかもしれない。


 「私たちはどこからやってきて、どこへと向かっていくのだろうか」