不思議な体験について話をしたい。自分がまだ子供の頃、10歳やそこら、いや、もしかしたら中学生になっていたかもしれない、とにかく昔の話だ。

 まだ元気だった祖父と北海道に旅行に出かけて時のことだ。確か阿寒湖か摩周湖、マリモで有名な湖での体験だ。

 祖父は静かに物思いにふけりながら、美しい湖畔の景色を眺めていた。かなりの時間、無言で佇みながら、目の前の風景を眺めていた。子供だった自分はすぐに退屈してしまい、「なんで風景ばかりを見ているのか?」と祖父に尋ねた。

 その時の彼が放った答えが意外だった。そしてその意味が良く理解できなかった。

 「まだ幼いからわからないかもしれないが、俺にとってはこの景色を見るのは自分の生涯で最後になるかもしれないので、しっかりと脳裏に焼き付けているのだ」と短く呟いた。

 その時の祖父の年齢は60歳を過ぎていたと思う。だからこの地を訪れるのは最後と思ったのだろう。そして実際に祖父にとって、その地を訪れる最後の機会となったのだ。


 旅に出かけたりして素晴らしい風景に遭遇しても、ほとんどの人々は、この風景を目にするのは最後であるなんて思わないものだ。

 ここは素晴らしいところだから、またいつの日か機会があったら訪れたい。そしてたぶん訪れるであろうと考えるものだ。

 しかし年齢を重ねて、たとえ漠然とであっても自らの死を意識するようになると、体験する一瞬一瞬がかけがえのない時間として感じられるようになるのであろう。

 その意味からも、祖父の語った言葉は真実なのだ。素晴らしい風景に出会ったならば、全身でその感動を味わい尽くさなければいけない。


 タイムアウトがいつかはわからないが、そう遠い将来、時間の彼方にはないと思うと、人々は生きる時間を大切にいつくしむようになる。

 ここまで全面的な思いではなくても、「学生時代、もっと時間を大切にしとけばよかった」とか「親が元気なうちに、もっと有意義な時間を共に過ごせばよかった」などは、誰でも等しく感じることだろう。


 だからこそ、素晴らしい時間はまさに貴重な時間なのだから、全身でその感動を味わい尽くさなければいけない。


 そして、私はあの幼い日から30年以上も経つが、再びあの北海道の湖に出かけることはなかったのだ。


 「私たちはどこからやってきて、どこへと向かっていくのだろうか」