今日の午後は埼玉県八潮市の市議会議員選挙の応援に出向いた。バタバタとしていた。夕方からは、とあるご縁があって、クラシックのコンサートに出かけた。

 会場が「音楽の友ホール」という神楽坂のホールだったので、地元ということもあり気軽に出かけたわけだ。

 

 モーツァルトだった。ピアノソナタ第12番へ長調KV332とヴァイオリンソナタ変ロ長調KV454を聴いた。

 ヴァイオリン~ビルギット・コーラー、ピアノ~松田裕美子のヂュオだった。


 それにしてもモーツァルトはいいなぁ。こちらがどんな精神状況であっても、すんなりと安定した音が心に入ってくる。これがブラームスやショパンだったら、そうはいかないだろう。

 今日の演奏、特にヴァイオリンの音、音色そのものが、とても良かった。


 ご縁あってのコンサートなので、そんなことは失礼に当たるので、とてもできないが、こんな良い音楽が流れている時には、静かに本を読んだり考え事をしたいものだ。

 何も演奏者の姿や表情を見ながら、集中して音楽を聴くこともなかろう。せっかくの良質の音楽は環境として鑑賞したい。

 音楽に限らない。絵画や彫刻、または建築にしても、本来は日常生活を彩る環境として味わいたいものなのに、日本の国にあっては、なぜか一つの芸術作品として対峙することを求められる。


 芸術作品は作品が独立して存在するのでは面白くない。あくまでも自分の生活の環境として味わい尽くしたい。

 これは私だけの趣向なのかもしれないが、私はあくまでもこのように欲するのだ。