タイムアウト、Time Out.

つまりは時間切れということだ。では、何が時間切れというのか。それがいったいどうしたというのか。


 私たちは日々、有限なる時間の枠において生きている。直接的な意味でのタイムアウト、すんわち「死」という究極の現実について考察する場合でさえ、「人間の死亡率はほぼ例外なく100%である」という厳然たる事実が立ちはだかる。

 もっと些細で卑近な例としては、受験の本番日までの時間がカウントダウンされるという意味でのタイムアウトなども存在する。


 しかし、それでいながら、どれだけの人々がその真実に気づき、日々意識をしながら時間を過ごしているだろうか。


 まず自分の人生における残り時間を考えてみよう。平均寿命からすると、私の場合はあと30年ということか。これでも何と少ない期間だろうか。もう春の桜も、夏の太陽も、秋の紅葉も、冬の粉雪も、あと30回ずつしか体験することはできないのだ。

 さらに、あと余命10年、余命5年、余命3年、余命1年、余命半年、余命3か月、余命1か月、余命1週間、余命一日と、順番に考えてみよう。

 この残された時間に、自分は何を思い、どんな行動を起こし、どのような時間を過ごすのだろうか。

 ちょっと想像するだけでも、自分自身について見えてくることがある。

 日常生活におけるルーティーンの中で、自分自身がいかに無自覚のもと生きているかがよくわかる。


 どうしてだろう。それは自分も含めて誰もが、自分のタイムアウトを見ようとしない、考えようとしないからだろう。だれも自分自身の死が訪れるなんてことを思いもしない。

 たとえ自分の両親の死を経験しても、自分自身の死の訪れは想像しにくいということだ。


 しかし。


 死から目をそらすと、現在形の生が希薄化してしまう。



 「私たちはどこからやってきて、どこへと向かっていくのだろうか」