印象的な記憶の痕跡は、体験した時間の長さには無関係である。


 どんな人でもそこそこの人生の道程を歩んでいれば、「忘れられない日々」「忘れられない期間」、それこそ「忘れられない時間」というものがあるはずだろう。

 青春時代に恋愛に苦しんだ時、一人気ままに旅に出かけた日々、ある仕事のプロジェクトに熱中していた時期、それは多種多様な時間かもしれない。

 しかし、そんな時間とは後から振り返ってみれば、意外と短い時間だったりもする。自分の記憶のバケツにおいて大きな量を占めるであろう体験が、実際の物理的な時間においては、あっけないくらい短期間ということもある。


 緊張のもと心が充実しており、精神が活発にエネルギーを発しているような時間は、たとえ物理的な時間としては短くても、その密度はとても凝縮されているので、多くの物語を内包した長い時間として感じられるのだろう。

 その逆で、日常生活の倦怠のうちに埋没しているような時は、精神も薄く曇っているような状態であるため、物理的には長い時間であっても、いったい何を行動して何を感じているのか、曖昧なような澱んだ時間帯として忘れ去られるのであろう。


 子供の時代は、見るもの、触れるものが好奇心を刺激するような発見に満ち溢れているため、いつでも精神は活性化しているが、やがて大人になると、どれもが経験上の分かりきった枠組みのうちに収まってしまい、たいしたことでは感動もしないし、心が震えるということもない。

 だから子供の頃に比べて、大人になってからの方が、私たちの時間が足早に過ぎ去っていくように思えるのだろう。


 それでは精神の活性化にとっては、私たちを取り巻く外的な環境は大切であろうか。豪華客船に乗り込んでの世界周遊の旅にあっては精神が輝き、刑務所の薄暗い部屋で拘束されているならば精神が澱んでくるのか。

 そんなに単純な話ではないようだ。人間の精神はもっと自由である。

 かのアドルフ・ヒットラーが30代の時に内乱罪でランツの牢獄に囚われていた期間、まさにあの時間に有名な「わが闘争」(マイン・カンプ)が書き記されたのだから。


「私たちはどこからやってきて、どこへと向かうのであろうか」