睡眠に関連しての時間の話をしたが、同じように同一の時間が長く感じられる体験というものもある。


 若い頃に長野の善光寺に出かけたことがあった。みなさんの中には体験された方々もいると思うが、善光寺には真っ暗な寺内の道筋をまわって秘仏を拝むというコースがある。

 その迷路のような道筋は本当に幾ばくかの光もない漆黒の暗闇である。手探りで一歩一歩の足取りを進めていくのであるが、暗闇の中を歩いていると、自分がどこを歩いているのか、また時間と空間の感覚がぼやけてくるものだ。

 なかなか出口にたどり着かない。やっとの思いで外の光に触れた時、ずいぶん長い時間歩いてきたと感じるのであるが、実際の時間はわずかなものであった。30分以上は歩いたと思うが、実際には10分くらいのものであった。

 これと同じような体験をした方々も多いはずだ。誰にも共通の体験だと思う。


 また最近の話。私の実体験である。今年の夏に御岳山に出かけた時の話である。御岳神社の脇道を進むと、その先には「ロックガーデン」という、岩に囲まれた川の周囲の自然公園がある。

 そこまでたどり着いて、川の冷たい水にタオルを浸しながら、適当な岩に腰かけて本を読んでいた。辺りには私とその連れしかいない。誰もいない静かな空間だ。

 結構時間がたっていると感じた。おおよそ一時間以上もその場所に佇んでいたような気がした。

 しかし実際の時間を確認したら、まだ20分そこそこしか経過していない。「たったそれだけの時間だったのか」というのが、偽りのない感想であった。そこでの干渉されない自由な時間が、とても長い時間として自分のものになっていたのだ。


 非日常的な時間は長く感じられるものなのか。日々の生活におけるこまごまとした雑事が意識を浸食することによって、私たちの時間は解体され、時間は足早に過ぎ去っていくのだろうか。

 当然のことながら、私たちは年齢を重ねるごとに非日常の時間は少なくなり、のっぺりとした日常の時間によって縛られていく。だから歳を取るごとに、私たちの時間は早く失われていくのであろうか。


「私たちはどこからやってきて、どこへと向かっていくのだろうか」