長く感じられる時間と短く感じられる時間という話からスタートした。たとえば1時間、10分とか客観的に量がはかられる時間であっても、子供の頃の時間は現在の時間よりも長く感じられることは紛れもない事実である。


 漠然とした思いでなく、具体的な例を考えても、誰でもこのことは実感できるだろう。


 たとえば「夏休み」。子供の頃の夏休みといったら、それこそ長い時間として感じられたものだ。終業式があって、さぁ、今日から夏休みだ!という時、ひと夏の期間がそれこそ永遠のドラマをはぐくんだような長い長い時間として感じられた。

 わずかひと月そこそこの期間であるのに、多くの夢と可能性が約束された期待感があったのだ。子供時代から青春時代に時期が移っても、それは「ひと夏の思い出」という言葉があるように、不思議な広がりを持った期間だった。誰もが遥か昔の時代に等しく感じた感情だろう。

 しかし成人になった現在はどうだろう。ひと夏の期間、一か月など「あっ!」という間の期間だ。だって夏休みの始まる7月21日(ちょうど参議院選挙の終わった日)から今日まで、なんと時が過ぎるのが早いことか。気が付いた時には、勝手に時間が経過していたという趣きだ。


 さらに、もっとミクロの時間例を考えてもよい。みんな小学生の頃の一日を思い出してほしい。午前中に4時間あり、給食の時間があり、昼休みの後で午後の授業は2時間ほどあったようなものだ。

 午前中の授業時間の間には、5分とか10分とかの休み時間が設けられたであろう。みんな、その短い5分とか10分とかの休み時間を利用して、階段や廊下を駆け抜け校庭に集まりドッチボールをしたり、鉄棒をしたりしただろう。

 たった5分や10分の休み時間だよ!よくそんな短い時間を惜しんで遊ぼうと思ったものだ。現在ならば5分や10分なんていう時間は、それこそ一本のタバコすらゆったりと喫えないではないか。

 それは当時の子供であったみんなにとって、5分や10分というのは「短い時間」ではなかったのだ。充分に活用できるだけの時間だったのだ。


 こんな感覚の差は、とても不思議ではないか。


「私たちはどこからやってきて、どこへと向かっていくのだろうか」