時が過ぎるのは、早いもので、もう夏の終わりを感じる。

 今朝は久しぶりに早起きをした。朝の清んだ光に満たされた空、その遠い上空の濃淡は、すでに秋の空の姿だった。また全身を敏感にして感じると、触れ過ぎていく風も空気も、やはり秋の感触をかすかに漂わせている。あれほど暑く強かった夏も終わりなのか。

 確かに今日だって昼下がりの頃には、濃く厚かましいくらいの暑さが通りを埋め尽くすが、もうそれは過ぎ行く季節の残照でしかない。


 暦からすればとうに立秋である。

 そして8月も終わり、今年も残すところ4か月間、つまり全体の三分の一しかないのだ。今のうちから年の終わり、クリスマスや大晦日を想像する人は少ないだろうか、その時期は実際にはもう近くまで迫ってきているのだ。

 ただ、この夏が放つ強い残照の中にあっては、まだ一年の半分、折り返し地点だくらいの感覚を持つ人の方が多いのではないだろうか。しかし、それは誤りである。実は終わりに近い地点なのだ。


 早い、時間が過ぎるのが、あまりにも早い。

 それに対して私たちは何と無知で、無自覚で、無関心であろうか。

 この残酷な事実に気づかないのではない。そこまで馬鹿ではない。薄々には気づいているのだが、無意識のうちに目をそむけているのだ。あまりにも辛く、詮無い話だから。


 今年の終わりが近いという話をした。ならば、自分の一生とは。私はもう40代の終わりだ。とするならば、もう人生の三分の二は過ぎてしまっている季節なのだ。

 折り返し地点ではない。終わりに近い地点なのだ。ならば一日一日を大切にしよう。

 意味のないことに悩んだり、くだらないことに係わっている時間はないのだ。

 


 「時間と感性」、これはとても重要なテーマだ。本当に若い時、いや、子供時代に学び体験すべきテーマだった。しばし、このテーマについて考察してみたい。