先日は認知について考えたが、ここで認知という言葉を認識という言葉に変えて、やや広い意味を持たせながら考察をすすめていきたい。


 認識が個人によって変化、というよりも歪みを持つ場合には、主に以下の2つが想定される。当然、戦争や革命といった社会環境の劇的な変化や、個人的な病気やケガなどの危機、洗脳体験などなど、特別なケースを除けば、やはり以下の2つに集約されるのではないか。


 まず一つ目は、その人個人の「欲」と「恐怖」によって、世界への認識が曲がってしまうケース。

 二つ目は、その人個人の過去の体験による固定概念やこだわりによって、認識が曲がってしまうケース。


 最初の欲や恐怖による場合は、一時的なこともあるし、もちろん人間性を鍛錬することで克服することも可能である。しかし固定概念、こだわり、指向性による場合は、そもそも本人が認識の歪みに気が付かないということもあり、なかなかに厄介な問題である。

 また無知によって引き起こされる認識の歪みも存在する。


 どちらの場合においても、認識の歪みによって、簡単に解決する状況にてこずったり、先へ進むことが困難になったりと、悪い事このうえない。

 これは個人の人生の問題だけでなく、政治に携わる者にとっては社会全体の問題でもある。

 正しい認識なくしては、正しい処方箋などありえないのであるから。


 この問題について次回以降、書いていきたい。