前回はかつてのスターやアイドルの写真や映像を見て、それをあたかも現在において実在する対象であるかのように感じでしまうという心理について書いた。

 松田聖子やアグネス・ラムの若い頃の写真や映像に触れて感動する現在に生きる中学生という絵図もなかなか奇妙だが、それも私がリアルタイムで体験した彼女らを知っているからだろう。

 この現象は何も不思議なことではない。世間一般で言われる芸術作品の範疇としてとらえるならば、むしろ至極当然のことであるのだ。


 太宰治や夏目漱石の作品は、現在でも多くの人々に当然のように愛読されている。しかし私たちは彼らが生きた時代にいない、彼らが生きた時代の空気にも触れていない。彼らが生きた時代の微妙な文化的なニュアンスを知りえない。(そもそもその時代にはインターネットやスマートフォンなど存在しないのだから)

 それでも彼らが表現したものに対して、良き作品として感動するのだ。

 それほどに時間軸というものは大切なのだ。当たり前のことだが、彼らの文学作品はリアルなものではなく、架空世界(バーチャル)なものとして認識される。しかし感動をするということは、いくぶんかリアルな世界として自分自身のうちに昇華させているからであろう。

 それでも現代の作家が描く世界と比較すると、いくぶんかの感性のズレを感じずにはいられないことも事実だ。それこそ時代の線を超越しての共感を呼び起こす作品、シェークスピアや源氏物語などは例外的な天才の手によるものだ。


 芸術作品と異なるのは、映像や音声といったきわめて具体的な、しかも生々しいものとして、バーチャルなものが、過去から現在に立ち現れる点であろう。

 そしてその実体は、過去も現在も変わらないのだ。初めて接触する者にとっては、過去のアグネス・ラムも現在にバーチャルなものとして立ち現れるアグネス・ラムも、何ら変わることがない対象であるのだ。


 この点はとても大切な視点だと思う。だから私はビートルズを聴いてみたいという人がいたら、ビートルズのベスト盤などを薦めるのでなく、ビートルズが発表しきた作品を、そのアルバム順に時代を追いながら聴いていくことを、あえて薦めるようしている。 

 その方が、よりリアルに、より同時代的に、ビートルズを感じることができるからだ。