関西方面から新宿の日常に帰ってきてから、つらつらと思うことがある。重要なことでもあるので、この場を使って書いていきたい。


 「喧嘩のプロと戦闘のプロが戦ったら、どちらの方が強いだろうか?」

 これはあまりにもバカバカしい質問だ。当たり前だが、喧嘩のプロよりも戦闘のプロの方が強い、というよりも勝負にもならないだろう。

 たとえば同じように反社会的な集団であっても、ヤクザ(喧嘩のプロ)と反政府ゲリラ(戦闘のプロ)が戦ったのであれば、たとえ所持する武器が同格のものであっても、圧倒的な勝利で戦闘のプロ連中が勝つであろう。想像するまでもないことだ。


当たり前の話だが、喧嘩のプロであるヤクザは街にいるが、戦闘のプロは戦場(そこがどこであろうが)にいる。戦士は常に戦場にいるのだ。

 そして戦場には様々な戦士が存在する。優秀な兵士もいれば、ダメな兵士もいる。

 熱き勇猛さに身を包んだ者。臆病な心を持ちたえず陰に潜む者。不安と恐怖にかられておかしくなる者。冷静沈着でいかほどのためらいもなく敵を殺傷できる者。個人行動を得意とする者。機械のように集団で行動する者。

 本当に種々多様な戦士が戦場にはいるものだ。そして結果としては強さを発揮するのだ。

 なぜならば戦場では誰もが戦士だからだ。常に戦いの現場に身をおき、そのような姿、そして行動様式をまとっている。そこは残酷なまでに「非日常の世界」だ。

 それに対して、喧嘩のプロであるヤクザはどうであろうか。当然その職業柄、いつでも一定の緊張感を保ってはいるが、良い服を着て良い食事をして、喧嘩の場面になったらば突撃していく。いわば狂暴ではあるが普通の市民である。彼らが住むのは「日常の世界」なのだ。中にはゴルゴ13のように非日常の意識で戦うことができる超一流の喧嘩のプロも存在するだろうが、これはあくまでもマンガの話だ。

 この状況の差、それが生み出す意識の差、緊迫感の差は非常に大きい。ゆえに喧嘩のプロは戦闘のプロにはとても歯が立たない。


 なぜ私がこのような比喩的な話を書いているかというと、戦いというものを人生における勝負ということに例えるのならば、自分ははたして真に戦闘のプロの状態かどうかということを自問するためだ。戦士であるはずが、その実は単なる喧嘩屋のレベルにとどまっていないだろうか、と自問するためだ。

 戦い、勝負に際して、本当の意味で戦士となるためには、まず日常の生活、それに立脚する日常の意識を捨て去らなければいけない。日常での志向を捨象しなければいけない。

 美味しいものが食べたいとか、疲れたから休みたいとか、戦場では誰もがそんなことは考えはしない。戦って勝つ、そして生き残る、ただそれだけだ。

 戦場でバーベキューをするだろうか。戦場でデートをするだろうか。戦場でファッションや髪型を気にするだろうか。戦場でカラオケをするだろうか。

 ベトナム戦争を描いた「地獄の黙示録」では、いかれた指揮官が戦場でサーフィンをしようとするシーンが登場するが、これは圧倒的な軍事力を誇るアメリカ軍での話だ。自分の限界内チャレンジでの勝負ならば、そういう余裕もあるだろうが、ギリギリの線での真剣勝負では考えられない。(しかも現実にはアメリカはベトナム戦争を勝利できなかった)


 この文章はまさに自分自身への自戒を込めての話だ。戦いの勝利は日常の延長線上にはない、非日常の世界を限界において飛び越えた地点にあるものだ。

 そのためには自らがいち早く戦士にならねばいけない。敵が全面に立ち現れてからでは遅すぎるのだ。戦士であるつもりが、実は単なる喧嘩屋だったでは、取り返しがつかないことになる。

 戦士ならばたとえ戦死しても名誉は残るが、戦いに負けた喧嘩屋ほど惨めな者はいない。たった一度きりの人生の大切な局面において、私はそんな者にはなりたくない。


 さあ、ためらわず、明日から戦おう。

 目覚めた世界はすでに戦場であるのだから。