私たちが暮らす世界のバーチャル化によって、現存の資本主義のシステム(消費の連鎖)が静かに崩壊していくと述べてきたが、その後の世界はどのようになっていくのであろうか。

 まさか有史以前(貨幣というものが存在していない時代)のカオスに逆戻りするはずもないので、社会秩序が維持されるかぎりにおいては、何らかの進化を遂げていくのであろうが、それについては私もまったく見当がつかない。予測が不可能である。


 と言っても、それでは話は終結してしまうので、自分勝手ながらいくつかの予測を考えてみた。未来に向けて、大まかには3つの道が予測される。


 その1:たとえ社会のバーチャル化が進展したとしても、共通の価値観としてそれを評価しないことで、現有の高付加価値商品の消費を促していくという方向。

 「バーチャルなんてリアルに比較すればみすぼらしい、そんなものはリアルに充実感を味わえないヤツの惨めな自己満足でしかない」という価値観を人々が共有するように、強い宣伝圧力がかかり「バーチャルを楽しむ連中は異端」という風潮が進展していく。

 これはまさに「オタク」と言われる人々をある意味で蔑むことに共通している。だが現在でも世間のそんな雰囲気にもめげずに「オタク」の文化は拡大しているように、上記のような急激な揺れ戻しには無理がある。ゆえにこの場合においても、緩慢ながらバーチャル化は進行していくであろう。


 その2:バーチャル化の進展は進展として放逐しながら、より貴重な「リアル」の消費における価値を高めてしまうという方向。

 これはとても恐ろしい結末だ。私たち人間は生物なのだから、いかにバーチャル環境が整っていても、最低限のリアルな消費(食べる、寝るなど)がなければ生きていけない。生きていく以上、消費しなければならないものはあるのだ。

 このような生活必需品の値段が恐ろしく高騰したらどうであろうか。とても洗練されたバーチャルな娯楽に囲まれつつも、つねに腹をすかしてながら劣悪な環境に暮らす。まさにトータル・リコールに出てくるコロニーの世界ではないか。

 生涯彼女とデートすることはなく美少女ゲームにはまる「オタク」も可愛そうだが、それは何となれば自己満足の世界として完結することができるが、食うものがないとか、寝る場所がないとか、こうなってくると問題は別次元である。

 たとえ生命維持のために必要最低限のモノや環境があてがわれていたとして、それだけであるならばバーチャルな世界を離れてリアルな世界で生きることは、監獄生活や奴隷生活と何ら変わりがない。


 その3:高付加価値を付与された高額商品が売れなくなる代わりに、人々の意識や欲求が「モノ」ではなく、よりメンタルなサービスへと移る方向。

 世界全体の意識的な変革が物質中心の考え方から精神性を重視する方向へと変わることによって、新たな、そして高度な消費社会は出現するであろう。

 現在でも、「セミナー」、「セラピー」、「カウンセリング」、「コーチング」、「癒し・ヒーリング」など、このような傾向を色濃くしたサービスが旺盛に消費されるようになっている。

 そしてこれらのサービスは画一的なバーチャル化が難しいために、すぐには衰退することはないと思われる。それでもこの領域においてもバーチャル化の波による浸食は免れないので、当面は共存共栄の道を模索していくのではないだろうか。



 以上、3つの予想をたててみたが、いったい私たちはどこへと向かっていくのであろうか。私の個人的な望みとしては、緩慢なる(その1)を経ながら(その3)へと進むのが良いと思っている。

 しかし世界の人口爆発や環境問題、残存資源をめぐる状況を考えるならば、実際は(その2)への道を突き進んでいくようで心配な限りだ。



 それにしても、世界のバーチャル化により資本主義のシステム、その誰もが疑わなかった不滅の王宮、かつてマックスウェイバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で表現したような社会秩序は緩やかに崩壊していくだろう。

 そして王宮が完全に崩壊した時に、誰もが気が付くのである。

 「この王宮を支えていた、王国の基礎となる(貨幣)そのものが、実はバーチャルな存在であった」ということを。