トータル・リコールを観て考えたことを書こうとしていたが、前回の時にはなかなか思考がまとまらなかったので、ごく平凡な批評しか書けなかったが、今回はもっと本質的な問題に関して掘り下げていきたい。いささか文章が長くなるのだが、重要な問題でもあるので関心を持つ方は読み進めていただきたい。


 最新版のトータル・リコールを映画館で観た後に、改めてシュワルツネッガーの昔のやつを観なおしてみた。このオリジナル版はいささかファンタジー的な要素が強いし、彼のアクションがエンターテイメント性を色濃くしているので、この作品の放つテーマの本質は曖昧になりがちだが、今回のトータル・リコールの出現によって、だいぶ私たちの目の前に明らかになってきたような気がする。


 それは、現代社会の特徴である、「リアル」と「バーチャル」という問題だ。あえて文学的な表現を用いるならば、「現実」と「幻想」とでも言うのだろうか。



 この問題を考える前に、みなさんに一つの質問をしてみたい?

 「トータル・リコールの映画に出てくるような仕組みで、バーチャルな非現実であっても、楽しく素敵な思いができるのであれば、自分もぜひ体験してみたいと思うか?」


 当然のことであるが体験することによって後々に脳に後遺症が残るとかでないことを前提にするならば、あなたならばどうであろうか。

 私は体験してみたい。これが本音である。おそらくは大多数のみなさんも、ぜひ体験したいと思うであろう。人間ならば当たり前の欲求である。


 実はトータル・リコールほどは劇的でなくとも、私たちの暮らす現代社会は多くの人々の抱くこのような欲求を飲み込みながら、バーチャルな娯楽、バーチャルな世界の創造を加速化させてきたのだ。

 より初歩の段階ではテレビとか映画だし、より発展すればオンラインゲームなどが思いつく。さらに問題を飛躍させて考えれば、ブランド商品もキャバクラも、トレードなどの経済活動も、政治的なドラマも、そしてこのブログだって、バーチャル的な要素に浸食されているのだ。

 そして多くの人々はそのことに気が付いていない、というよりは意識すらしていない。どれもが自分にとってリアルなものであると感じている。トータル・リコールのような極端な幻想でないと「非現実」であるとは感じなくなっているのだ。

 これは良い悪いという評価の問題ではない。そのような現代社会に、まさに私たちは生きているのだという事実の問題である。


 そしてこのバーチャル性に程度の議論はなくなってくるだろう。一人殺すのも、三人殺すのも、同様に犯罪であり倫理的にも悪であることと同じように、弱いバーチャル性も強いバーチャル性も同じだ。ならば、より楽しく、刺激的な方が良いではないか、という方向に思考が向かうのも何ら不思議なことではない。

 そうだ、みんなでトータル・リコールを体験しよう!、さらなるバーチャルな世界を構築していこう!、と世界が突き進んでいくことも自明の理であろう。かくして現代社会は加速度的な変化を遂げつつある。


 しかしこの現実的な変化が、実は私たちの世界の根底にあるルール、つまりは資本主義のシステムそのものを崩壊させつつあることには、まだ誰も気が付こうとはしない。ここが恐ろしいところだ。