人口減少社会の到来により労働力人口も減り、日本の国の活力が失われるという論点が間違ったものであることを前回は指摘したが、今回は人口減少による需要の低迷がもたらされるという、一般的に言われる側面についても考えていきたい。
確かに人間が多い社会の方が少ない社会よりも、より多くの物資、エネルギー、サービスを消費するわけで、単純な需要創出という観点からは人口の減少はマイナスである。
しかし、多くの人口が多くの需要を生み出す(言い換えれば多くの総売り上げを企業にもたらす)といのは、大いなる幻想にすぎない。第一に、いくら大勢の人々がいても、その人たちの懐にお金が潤沢にないと、健全なる消費など増えるはずがない。
多くの人が、きちんと労働をして、そしてお金を多く稼いで、それではじめて大きな需要が生まれるのだ。お金がきちんと稼げなければ、誰もが安価なものしか消費活動を向けようとしない。売れるのは低価格商品ばかり、企業はこぞって価格破壊の競争に邁進する。まさに絵にかいたようなデフレ状態。それが現在の日本の国における姿なのだ。
結局はみんなで安いもの(たとえばユニクロなど)をこぞって購入して、その実は海外に移転した工場の稼働率を上げて、海外の労働者の所得を増やしているだけである。
まあ、企業自体が利益を上げれば、幾ばくかのお金は国内に還元されるのだが、全体的な大まかな構造は変えようもない。
それに対して、このように反論する者もいるだろう。「人々にお金がないということはない、日本国内には世界に類を見ないほどの多額の国内金融資産が堆積している、これをうまく消費に振り向けることが大切」であると。
そんなことはない。かつてのバブル絶頂期でさえ、マスコミをはじめ世論は「やれ、内需拡大だの、高付加価値商品だの、差別化だの」と声高に叫んでいたが、結局は一部をのぞいて誰も消費に突き進んではいない、ほとんどが土地やら株式やらの投資に回って、最後はあのような結末を招いたのだ。
またこのように考える者もいるだろう。「国内の資産が莫大であるといっても一部の金持ちや企業に貯まっているだけなので、これを広く国民全体に再分配すれば、消費は健全に拡大していく」のだと。
これも間違っている。かつての菅直人が言っていた、「増税をして財政にゆとりをもたらして、それによって公的分野の政府支出を拡大して、社会保障分野などで雇用を新しく生み出せば、それによってお金は循環して景気が拡大する」というトンデモナイ理論と同じだ。「ネズミ小僧」じゃ、あるまいし。
要するに金のあるところから金をかすめ取って、それを非生産的な連中にばら撒くことで、一時しのぎの対応をしようというだけにすぎない。これでは長年にわたって蓄積された富や価値や信用を取り崩して、何とか「目先」させ乗り切れば良しとする最悪の発想である。
このような考えの人々がいくら総人口として増加して、需要拡大への欲求が増えたとしても、結局は過去の遺産の食いつぶしにしかならないのだ。このことは遠くのギリシャを見れば明白だ。
それでもギリシャはまだましだ。ソクラテスやプラトンの頃からの無形の莫大な歴史的遺産がある。日本の国にはそんなものはない。あるのは大切な虎の子だけだ。
だからこの大切な虎の子を、少数の賢明なる国民で守っていかなければならない。