現代社会における、実際の状況と私たちの認知する感覚のズレこそが、私たちの抱える最大のリスク要因との議論をさらに展開していきたい。

 昔の世の中に生きる人々は、己が感じる現実とは、まさに目の前で実感する現実と相違はなかった。たまに社会を襲う天変地異ですら、特別な神の意志ということで納得されていた。

 しかし、現代社会はどうだろう。知らず知らずのうちに、現実の状況と感じる状況との差異すらわからなくなってきている。それだけ感覚の慣れは進行しているのだ。


 あまり抽象的な話だとわかりずらいので、ここで一つの具体例をあげて考えていきたい。

 私たちの移動の手段には様々なものがあるが、ここに3つの例を取り上げたい。「徒歩」「自動車」「飛行機」の3つである。

 徒歩でとぼとぼと進んでいくこと、自動車を運転して時速60キロくらいで走っていくこと、飛行機に乗って空を移動すること、この3つの行為については、リスクという点において本質的な差異が存在する。

 移動の際中に何か異変があったり、危機に遭遇したりした場合、「徒歩」「自動車」「飛行機」の順でリスク回避はしやすい。

 単に歩いているだけならば、立ち止まって即座に対応できる。自動車を運転している場合は、まず自動車を止めてからの対応となるだろう。飛行機に乗っている場合は、すぐに空から降りることなど不可能だから、その対応にもかなりの制限が加わるであろう。

 しかし、現代の私たちにとっては、「徒歩」も「自動車」も「飛行機」も日常生活でかかわる、ありきたりのものなので、それはどれも同じように感じられる。そのリスクの差異に無頓着になりがちである。

 これが、江戸時代とは言わないまでも、戦前の頃ならば、「自動車」や「飛行機」で移動することは、人々にとってはそれなりの緊張を伴う移動方法ではなかったか。少なくとも現代人よりは、一定の用心をしていたのではないだろうか。まだ、実際の状況と認知する感覚の間のズレは少なかったように思われる。


 上記はあまりにも単純化された例ではあるが、これと本質的には同様のことが、経済活動の場などでも起こっているのだ。

 金融工学の発展により、財における信用創造が飛躍的に拡大した現在、「本当は飛行機で上空を猛スピードで飛んでいるのにもかかわらず、そんなことまったく気にもとめないで呑気に機内映画でも見ている」、まさにこれと同様の状況が生じてきていると考えられる。

 そして、こちらの方がさらに恐ろしい問題だと思う。