選択による行動の責任を考える場合、そこには小さなものから、大きなものまである。これは大小というよりも、些細なことから重大なことと言い換えてもよい。

 人間は小さなことを選択するときは必要以上に悩むくせに、大きなことを選択するときはいとも簡単に、そしていとも安易に、行動を起こすものである。とても不思議だ。

 私たちの毎日は、それこそ選択の連続だ。今日のお昼は「とんかつ」にしようか「ピザ」にしようか、はたまたは「チャーハン」にしようか、選択に悩むことはある。本当のところ、お昼に何を食べようが、それ自体はたいした問題ではない。

 そして日々の生活において直面する選択のほとんどが、「たいした問題じゃない」の一言ですますことができる類のものだ。

 しかし、仕事を選んだり、新しいビジネスをしたり、住居を決めたりと、本来ならばしっかりと時間と労力をかけて、検討していかなければならないような問題で、私たちはいとも簡単に選択を進める。

 時には他人に薦められたからとか、なんとなく気分やノリでとか、自分にとって重要な問題を主体性もなく決定してしまう。


 これは金銭、つまりは買い物に関しても如実にあらわれる。日常生活での、衣料や食品といったこまごましたものにつては、やたらとうるさく値段を吟味する人でも、マンションとか家とか金額の高い買い物をする時には、驚くべくほど何の考えなしに購入行動にでてしまう。

 どうして数千円については細かく意識を働かせて選択行動にでるのに、数千万については信じられないほど鷹揚な選択行動をするのであろうか。

 数千万円のたとえ10%でもきちんとコストダウンすることができたならば、今後は数十年にわたって日常的なこまごました買い物に関しては、その価格や購入について、いちいち細かいことを気にしなくてもすむというのに。


 この心理状態は、なぜ生まれるのだろうか。

 たぶん大きな選択にあって、その責任を心理的に少しでも軽減したいという欲求が、知らず知らずのうちに作用するからではないだろうか。

 重大な局面に真正面から向き合うことは、誰にとっても大きなストレスである。しかし、たとえ心理的に逃避したとしても、実際の所の責任(選択によって生じる有利・不利、快・不快)は、変わることなく自分自身にのしかかるものだ。


 この問題は個人の生活においてより、企業や国、自治体といったより大きな主体での選択の際に、より鮮明に立ち現れる。多くの人々の意識の集合体である共同体の方が、より個人の持つ心理的なバイアスが強調されうるといったところか。

 前回までの「責任と選択」シリーズを踏まえて、現在政治の場で話題になっている「税と社会保障の一体改革」について言及していきたい。