前回、前々回と続けて、「悪人」という邦画を題材にして、現代日本人に特有な価値観につて検証してきたが、ここで大まかな所をまとめていきたい。

 「悪人」の女性1と男性2、そして私が提示した「リバース版悪人」の女性2については、多くの人々の人物評価は甘い。それに対して、「悪人」の男性1、そして「リバース版悪人」の男性2については、逆に厳しい評価が下される。

 これはどうゆうことか? 男性、女性という性差を加味しても、以下のような法則が立ち現われるのではないか。

 「自分自身の実存や思い、ノリなどによっての、社会的な上昇、幸福の獲得」は共感を得られる。それに対して、「金銭や社会的な立場を得て、それによって幸福(欲望)を求める事」に対しては反感を覚える。

 一例として、物語の中でも、または多くの視聴者が嫌悪感を持って、悪人であると断罪された「悪人」の男性1。殺された若い女性を弄んだボンボン大学生。

 彼は確かに身勝手な性格の我がまま学生ではある。しかしそれほど多くの人々が嫌がるほどの極悪人であるのか。自分の行いが犯罪になったのではと怯えて逃げ隠れするような純な小心者ではないか。

 今まで両親の期待や重圧の中、幼いころから受験勉強に明け暮れた後、待望の大学生活であるかもしれない。そして彼は卒業してからは、確実に今までよりもさらに過酷な実人生における競争社会に投げ出されるだろう。学生時代のしばしの休息時間でたまには陽気にハメを外したいと思うのは人情ではないか。

 しかし、世の中の意見はそれをゆるさない。殺人を犯すまでの無定見なノリや思いに対しては共感するといのに。

 これはまさに、「学校的なる」ものに、多くの人々が価値観を侵食されているというまぎれもない事実だ。以下のように整理してみよう。

「その者自身という個人としての人格、その人の思い、ノリ」:学校的なるもの

「社会の中での人格、その人の行為、その結果、立場」:実社会のありよう

 そして、学校的なる世界の住民、その信奉者は、ゆくゆく成人をむかえる時期になって、実社会のありように失望する。そしてうまく方向転換できる者は良いが、それに失敗した者は恨みのうちに実社会に背を向ける。

 攻撃的な連中はヤンキー文化のうちに、内向的な連中は引きこもり・バーチャルな文化のうちに、みずからの矛盾をしまいこむ。こんなところだろう。

 実人生においては、個人の思いなど、いかほどの価値もない。その思いから生まれた行動、その結果、そして行動が獲得する社会的な立場、財などが大切である。

 何を思っているかではなく、いかなるもの(製品、アイデア、その結果としての金)を生み出したかによって、その者の評価が決定されると言うものだ。

 個人の思い、ノリそれ自体が大切にされるのは、ヘルマン・ヘッセの小説ではないが少年時代における話なのだ。

 長い学校で教えられる価値観と実人生における価値観とのズレが、若者の社会適応を困難にさせていることは明白だ。

 しかしだ。不幸なことに、この欺瞞に満ちた「学校的なる世界」は、現在日本の国全体の気分として厚顔にも蔓延し始めている。教育の社会化が、このようなふぬけた「学校的なる世界」を拡散させてきたのだ。

これが日本の若者、日本の社会全体を劣化させている最大の原因と言えよう。

日本全体が学校のような社会に変貌した時、我々は国全体として世界から食い荒らされるであろう。そんな未来はまっぴらごめんだ。

ところで、週末に杉並区でポスター貼りをした。夕方になって冷たい小雨が降ってきたので、高井戸天然温泉に遊びに行った。(庶民的だな)

露天風呂の中で体格の良い初老の男性がゆったりと文庫本を読んでいた。「何を呼んでいるのだろうか」と覗いてみたら、「開高健」であった。懐かしい作家だ。