前回に引き続き、「悪人」という映画について考えてみたい。ここでそのストーリーを詳細に記することは省きたいので、ぜひ一度観てほしい。逆に映画の内容を知らない人には、これからの記述は理解不能なので、読み飛ばしてもらいたい。

 「悪人」には多くの登場人物が存在するが、ここで話を単純化するために4人の登場人物にしぼっていきたい。以下の4人である。その年齢はほぼ同世代である。


男性1:地方出身の女の子を単なる遊び目的でナンパして、ドライブの途中で置き去りにした金持ちのボンボン

女性1:援助交際をしつつ、男性1との交際・結婚を望みながら、貢がせていた男性2に逆上され殺される若い女

男性2:女性1に貢ぎつつも彼女になじられ、それで逆上して女性1を殺害してしまい逃亡生活を送るさえない男

女性2:ふとしたことから逃亡中の男性2に出会い、その姿に共感して彼の逃亡生活を助ける純朴な女性 


 普通に考えれば、悪人とは殺人犯である男性2と、それを隠ぺいする女性2ということになるのだろう。しかし、物語は、その歴然とした事実を超えて、「誰が悪人なのか?」と問いかけてくる。

 法律や社会規範云々を外したところで、人々が感じるところの善悪の基準が問題にされているわけだ。


 私はこの「悪人」という映画を観たことがある人に、「あなたは誰が一番悪人だと思うか?」という問いを行っていった。すると、多くの人は悪人は男性1だという答えが多かった。男性1、まあ男性2も悪い。女性1は被害者。女性2もむくわれないある意味での被害者。といったところに多くの人々の感想は落ち着く。


 しかし、本当にそうだろうか。男性1は、そんなに悪いのか。若者独特の自由奔放さや無軌道さに目をつむれば、彼はたいして悪い事などしていない。しかし、現在の日本の空気は、そのようには認知しない。

 もし、彼(男性1)が、映画でのように冷たく自分勝手な性格ではなく、もっと心広く鷹揚な性格でいて、決して女性1を女性としては相手にしていなくても、優しい言葉や行いをもってして自分の快楽のための情事につなぎとめていたとしたら、彼(男性1)は悪人ではなくむしろ善人なのか。女性(女性1)に淡い夢を与えるのだから。

 それにも異論があるだろう。真剣に付き合う気もないくせに、女性1を弄ぶのなら、やはり彼(男性1)は悪人であるとの意見も数多くあった。しかし、考えてもみてくれ。出会い系サイトで援助交際(これは売春だ)をするような女性(女性1)を、真剣に結婚相手として交際するようなアッパーミドルの男などいようはずもない。

 むしろ、隠れて援助交際をして他の男(男性2)に貢がせて、自分自身はちゃっかりと金持ちの玉の輿に乗って社会的な上昇を成し遂げようとする女(女性1)こそ、真の悪人であるとの見方もできるのではないか。

 また、自分の社会的な地位の停滞を棚に上げて、わずかな金銭(数万円という本当にわずかなはした金)で、女(女性1)に対して真実の愛情を求めて、それが却下されると同時に殺人に及ぶというキレた男(男性2)こそ、やはり真の極悪人ではないのか。


 このストーリー、人物に様々な評価、そして視聴者の共感や反感が交差する。しかし、なぜだか男性2に対しての反感は少ない、当然脚本による着色や俳優の演技によるところもあるのだが、不思議なくらい男性2に対して現在の日本人は甘く、男性1に対して厳しいのだ。これが長く学校教育によって培われてきた、私たちの一般的な価値観なのだろうか。教育の社会化が生んだ歪みの一例だ。

 

 ところで、私は誰を悪人と思うのか。結論から言って、この4人の誰をも悪人とは思わない。まあ、議員という公的な立場で言えば、やはり犯罪を犯した男性2は悪人であるのかもしれないが。

 誰が悪いというわけではない、たまたまの悲劇なのだ。一番幸運な道は、男性2は女性2と早く出会い地道な暮らしをすれば良いし、女性1は豪華な遊びに連れられながら男性1の愛人で楽しく過ごせば良い。それだけの話だった。まはた、男性2は女などにうつつを抜かすのではなく、将来の自身の成功のために下積みを耐えれば良いし、女性1も夢みたいな願望を捨てて身近な幸せを手にすれば良い。それだけの話ではないか。


 しかし、これではしっくりこないものが、喉につかえている感じだ。なぜだろう。次回に続けて考察したい。