戦争体験というと、いくぶん左翼的なニュアンスがあるが、私が親や祖父から伝え聞いた戦争の話を書きたい気分であります。

 まず私の父方の祖父は官僚を辞めて、戦争に向けてパラシュートの製造会社を設立する希望をもっていたそうだが、結局敗戦で失意のもとに事業は頓挫という悲劇に見舞われた。若くして死に、その後、私の祖母はいろいろと苦労したという話を聞いている。一番の苦労はもともと麻布(麻布と書いたが当時の麻布区ではなく渋谷村の住人だった)のお嬢さんだった祖母が戦争の疎開で神奈川の厚木に疎開して、その家や店舗を他人に貸したのが運のつきだった。家はうやむやになるし、店舗は借家人が出ていかない(旧借家法の弊害)で、大変な損を被ったのだった。その店舗は最近まで、広尾地域で名だたるボロ屋として有名な悪名を得ていた。(後でこのことににも触れたいと思う)

 そんな訳なので、戦後、私の父はIBM で働きながら、国立の東京大学で学ぶことになる。その後も、件のボロ店舗は借家人が立ち退かず、その後長い間にわったてスズメの涙はほどの家賃しか受け取れなかった。なんせバブルの絶頂期に、土地の評価額が4億円から5億円という時代ですら、家賃は十万円ちょっとというありさまだったのだから。

 何を訴えたかったのかわからないが、要するに戦争は健全なる幸福を崩すというとだ。


 さて私の母方の祖父も、戦争で大打撃を受けた。戦時中は帝国陸軍に商品を納入していた関係で、兄弟会社は大儲け、まだ30代そこその年で祖母を自家用車に乗せてドライブのデートしていたそうだ。祖母と出会う前は毎日のように宝塚のスターに花束を贈っては遊んでいあたそうだ。当時は運転免許制度もなく、車などほとんど走っておらず、今でいう自家用ジェット機と同じような位置づけだったようだ。

 祖母の父は安田貯蓄銀行(現みずほ銀行)の幹部(のちに新宿センタービルを建設する東京建物株式会社の社長)だったので、お堅い家柄、自由奔放な祖父にいつも戸惑っていたそうだ。

 しかし、終戦とともにすべては終わった。工場もなくなり、従業員もてんでちりじり、まだ40歳手前だった祖父は、まさに茫然自失の状況だったそうだ。しかし、当時の日本人なら誰でも同じではないか。もともと無から生み出したものなのだから、また一から頑張ろうの精神で歯を食いしばったそうだ。しかし、毎日、毎日、虚しい日々に本当に自分に未来がおとづれるのかと自問したそうだ。永遠に続くように思われる出口のない苦悩。この後、この苦しみは後、何十年続くのか。

 しかし、案外と早く視界が明るく開ける日々が来る。朝鮮戦争の勃発ですべてが解決。数年前の悩みが霧のように一瞬で消えていく体験だったそうだ。あの当時、昭和50年から60年代にかけて、何の特別の努力もせずとも、大量のお金が舞い込んでくる状況だったそうだ。まさに池田首相の所得倍増計画の高度成長時代だ。

 その頃、私は誕生した。周りの人々は「銀のスプーンを口に生まれた」と揶揄したものだ。確かに、幼少の頃、毎週のように当時建設された霞ヶ関ビルの屋上で、「エビフライのランチや、ローストビーフのランチ」を食べた思い出がある。

 その時代、私は祖母にある話を聞いた。戦時中、私の叔父にあたる人が幼い年で死んだ。医療品が不足していたのだ。その後、私の叔母(今でも六本木で元気に生活している)が怪我をしてまさに死にそうな時、私の祖母は祖父の反対を押し切って、当時のペニシリン(終戦間際、ぺニシンンは家一軒の値段がした)を闇で取り寄せて、その命を救ったのだ。

 要するに、ここでも戦争を健全なる幸福を崩すということだ。ただし他人の戦争(朝鮮戦争)は、蜜の味ということか。私は学んだ。自分自身は争ってはいけない。他人の争いにこそ、好機はあるのだ。

 争い事は、バカがすることののだ。私は実は平和主義者なのだ。


 今でも、私の祖父の言葉が想い起こさせる。「バカだけが、争うというものだ。結局、得にはならん。争いは他人にやらせるべきだ。つまり、バカな連中にやらせるべきだ。」


 私の祖父は、とても面白い人だった。どんな時でも温和な人だった。旅行中、私の幼いころの思い出だが、いろいろな連中にからまれた時(結構、祖父はわがままだったのでよく人にからまれる)でも、すぐに財布からピンピンの一万円札を取出し、「金持ちケンカせずだ」の言葉通り、金を払ってすべてを解決したものだ。


 やはり、争い、戦争はバカのすることだ。しかし、どうしても、戦わなければならない時もあるだろう。このテーマにつてはいつか書きたいと思う。

 というよりも、現在の政治状況は戦前夜だろう。呑気に区議会の予算委員会に参加している場合ではないでないでしょう。私はやります。時は今だ。