若者の欲望、意欲が薄くなっていると多くの人がコメントしているが、まさにその通りだと感じる。かつて、私の青春時代は、バブル景気の真っただ中という特殊事情を差し引いても、若い連中は現在よりも、様々な方面に欲望を持て余していた。単なる遊びから、知識欲、行動欲まですべてにおいて。
しかし、現在ではその軽薄な部分ですら希薄である。車は欲しくない、ファッションやブランドはどうでもいい、スキーやスノボーもしない、海外旅行や留学にも興味なしなし、まさに不思議な現象とも言えるが、本当に多くの分野で意欲が薄いのである。それでいて日々幸せと実感している。うすら怖い。まあ、欲がないから幸福とも言えるが、すべての我欲や煩悩をなくして云々というのは、悟りきった老人の世界で、生命力あふれる若者の姿ではないはずだろう。
しかし、若者の欲望を常に刺激するとことから、高度資本主義、経済発展は生まれてくる。その点では、発展により活気がみなぎる中国などの若者の姿こそ、正常といえよう。
なんかのテレビドラマ「下流の宴」よろしく、「無理して頑張らなくってもいいじゃん」では、困るのだ。もっともっと頑張ってもらわないと。そしてその対価としてどんどんと消費していただかなくては、困るのだ。
しかし現代の若い連中は、昔のような資本主義、消費社会の罠にははまらなくなっている。
その意味からも、若い連中は無気力でなく、小賢しくなっているのだ。このような状況につおいて、どこかのコメンテーターのように肯定的な発言はしたくない、私はあえて否定的な発言をしたい。
なぜなら、高齢者には消費はできないから、恋愛もできない、スポーツもできない、もしかしたら旅行すらままならない80歳の高齢者には、普通の意味において消費文化をけん引することなど求められない。
若者のある意味でギラギラした欲望こそが、時代を前進させていくものだから。これは何も消費文化や経済成長のことだけではない。大いに、無理して、頑張っていただきたい。それが全体として、彼ら以外の全世代にとってプラスなのだから。そして強い欲望に突き動かされている世界だけが、真に良いもの、悪いもの、能力のある者、だめな者を正しく、ある時は冷酷に分別していくものだ。
小学校や中学校の教室の延長のような、のっぺりしたつまらない世界には住みたくないものだ。そのためには、新しい価値観や視点を用意して、若者の新たな欲望を湧き立てなければならない。それが、社会全体の幸福をもたらすのだ。ここら辺の突っ込んだ議論は、また機会をとらえてしてみたい。