団塊思い出日記

団塊思い出日記

60年の思い出を綴ります。

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その人は白血病と診断されて以降 薬を

グリベック→タシグナ→スプリセルと変えて来た。

白血球は5000位の正常値になったががん細胞は増え続けている。

3週間入院して不整脈の副作用を監視しながら薬の所定量を

服用するようになるかも知れない。そしてその次のステップは

骨髄移植だ。不安で不安で仕方ない。何とかして後10年は生きたい。

上の子供が高校卒業まではとの思いである。

少し遅れて合流した彼女の親友の女性と涙ながらに彼女の話を聴いていた。

しかし話す彼女は以前とは少し変化があった。以前は泣きながら話したのに

今回は涙を見せる事はなかった。それには理由があった。

昨年の夏にご主人の提案で家族で震災地に行ったそうだ。

そこで見た光景、感じた思いが泣かなくさせたのだと言う。

提案されたご主人の思いに脱帽である。そして体調悪いをこらえて

長距離ドライブについて行った彼女、そして6歳と8歳の子供さんにも

脱帽である。

私なんぞは何とノー天気に64年を生きて来たのか・・・

人の命なんて真剣に考えたことなんてあるのか?

健常人の生き方って何なのだ?

そんな思い、考えさせられた居酒屋であった。




「よし 会おう! 何処かで昼飯でもご馳走しようと思うが来れるか?」

「大丈夫です。行けます。」

「じゃあ 何時 何処で 何食べるか?」

「じゃあ 考えておきます。」

翌日にメールが入った。

「ランチと思っていましたが・・ 私 行きたい居酒屋さんがあるのですが・・」

「えっ? 居酒屋はタバコ臭いしお酒を飲まない訳にもいかないし

 あなたは耐えられますか?」

「大丈夫ですよ。 では20日の午後5時に○○居酒屋で・・・」

かくして私は彼女と居酒屋で会うこととなった。

私が居酒屋でもよしとしたのは彼女は私の64歳での退職を

恐らく承知しての提案だろうから好きにさせてやろうとの思いからである。

自分は常に薬の副作用と闘いながら常に命と対峙していると言うのに

何たるや 昔の酒好き上司と居酒屋で会いたいとは。

完全に私の負けである。私なんぞには出来ない配慮である。

駐車場で待っていたら元気そうに車から降りて来た。


昭和47年生まれの女性である。

平成22年の夏に骨髄慢性白血病と診断された。

当時は私と同じ職場にいた。物静かな女性で二人のお母さんである。

上司だった私に診断された旨を涙ながらに報告(告白)しに来た。

本人も家族も 私なんぞには到底理解に及ばない途轍もない

不安の衝撃であったのだろう。

それでも彼女は気丈に「私はこの職場が好きだからここで働きたい」と言う。

薬の副作用がひどくて仕事が出来る状態にはなかったが

私は翌23年3月まで休職の形で雇用し続けた。

忘れもしない平成23年3月11日 東日本大震災の日の午後に

私は彼女を会社に呼び出して病状等のヒヤリングをしていた。

その時である。グラグラ~グラ!グラ!と来たのである。

二人で会議室から屋外に飛び出したが既に職場はパニック状態であった。

何と因果な出来ごとであろうか 命と真剣に向き合っている人と

久しぶりに会っていると言うのにである。

彼女から1週間前に久しぶりにメールが届いた。しかも朝の7時にである。

3つ目の薬に切り替えたが副作用(不整脈)激しく所定量を服用出来ずに

不安で仕方ない。私と会いたいと言う。

私はメールの着信が朝7時と言うの何故か気になったので

直ぐに返信をした。「よし 会おう!」