昨年に比べると、インフルエンザの流行はひどくなさそうですが、僕らの会社でも把握しているだけですでに3名がかかりました。

タミフルを飲んで、短期集中で治療して復帰してくれる。そんな努力をしてくれるだけで、ありがたいですね。

インフルエンザに限らず、空気が乾燥しているので、体調管理にはお互いに気をつけましょう。


先生 その400


ボクが社会人として最初に働き始めたのは、品川にある生コン工場でした。

比較的優しい先輩たちに囲まれ、人間関係については恵まれた環境でしたが、ボク自身は社会人としてのイロハが備わっていない生意気なガキでした。

手抜きと言いわけと屁理屈ばかりだった当時のボクを振り返ると、ボコボコに殴りたくなりますパンチ!


当時、会社員としてのルールを躾けてくれたのが、M工場長でした。

声が甲高くて大きく、隣の部屋からもタカ笑いが聞こえてくるような明るい方ですが、反面怒った時には、事務所全体を凍りつかせてしまう厳しい人です。


ボクが入社して半年、有給が使えるようになった頃に、風邪をひいて熱を出したことがありました。

「こりゃ、仕事にならねぇや。会社に電話して、今日は休んじゃおう」

会社に電話をして、早出をしていた先輩に、具合が悪くて休むことを告げ、「社会人としての約束は果たした」と安心して休みます。


しかし、翌朝会社に行くと、工場長から会議室に呼ばれました。

「稲葉君、昨日なんで休んだ?」


「風邪をひいて熱が出てしまったので、仕事にならないと思って休みました」


「病院には、どうやって行った?」


「近くの病院だったので、自分の足で歩いて行きましたけど・・・」


とたんに、M工場長が鬼の形相になって、怒鳴りつけてきました。


「自分の足で歩けるくらいなら、簡単に休むなむかっ

お前が休んでいる間に、みんなどれだけ心配して苦労したか、考えたことあるのか!!」


「どんなに具合が悪くても、まずは這ってでも会社に出てこい!!

仕事にならないかどうかは、お前じゃなくて一緒に働く仲間が判断する。

それが、誰かと一緒に働く者のルールだむかっ


この言葉は、甘ったれていたボクの心に突き刺さりました。

それ以来、朝具合が悪くても、いったんは会社に出勤するというルールは守り続けました。


今ではこの習慣が染みついてしまったので、従業員さんたちにもそれを強要してしまいますが、みんな慨ねルールを守ってくれています。

いつまでも、健康で働けることに感謝、そして病気になっても、心配しフォローしてくれる仲間に感謝ができる自分でありたいです。

小学校のとき何クラスだった? ブログネタ:小学校のとき何クラスだった? 参加中

今でこそ、30~35人くらいで1クラスが当たり前になってきましたが、僕らの頃は最低でも1クラス40人はいたんじゃないかな?
1年から6年まで2クラスしかない、小さな小学校でしたが、今ではそんなに珍しくないんですね。
そんな母校も、今では地域で最も規模の大きな小学校になり、学年3~4クラスの小学校になりました。

先生 その399

母校は増築やグランドの移設で、ボクが通っていた頃と全然雰囲気が変わってしまいました。
長男が入学するちょっと前に、散歩がてら小学校まで歩いて行って、その光景に愕然としました。

「おかあちゃん(おふくろのこと)、学校のかしの木がなくなってるよ!!」

「あぁ、何年か前に木が弱くなっちゃったんで、切り倒したみたいだよ」

かしの木というのは、小学校のグランドの真ん中に立っていたシンボル。
それほど大きくないグランドだったので、野球やサッカーをやるときには邪魔に感じる存在でした。
でも、卒業生の人にとっては「○○小学校=かしの木」くらいの存在だったので、この話を聞いた時にはショックでしたねぇ・・・。

小学校6年生の時に担任だったのは、当時まだ20代の男の先生でした。
いわいる体育会系の先生で、当時(約30年前)ですから、体罰は日常茶飯事むかっ
多分、忘れ物や些細な失敗も含めたら、叩かれたことのない子供はいなかったんじゃないかな・・・。
ものすごく怖い反面、僕らを笑わせようとすることにも、一生懸命な先生でした。

また男の先生らしく、「ケンカはやっていい。ただし、最後の作法を忘れるな」と教えてくれました。
先生の言う最後の作法は「仲直りの握手」
今思えば「ケンカをすることで絆を深めていけ」というメッセージだったのかもしれませんね。
実際にボクも、友達とケンカをした時、しばらくの間先生は黙って見守っていました。
ある程度のところで仲裁に入り、淡々と諭すようにして仲直りさせてくれた思い出があります。

体罰やケンカの奨励なんて、今の親たちにとっては即クレームの対象になりかねませんが、一本筋を通していたから、僕らも反抗しなかったし、親も納得してくれていたんだろうと思います。
そういった意味では、今の学校の先生や子供たちは、気の毒に思えるんですよね。
先生の叱り方に問題があるのか? クレームをつける親に問題があるのか?
どっちもどっちだけど、ボクは子供の頃に厳しくて怖い先生に出会えて、在り難かったと感じてます。

残念なことに、先生は僕らの卒業とともに、実家に近い水戸の中学校に転勤していきました。
離任式の挨拶の内容は覚えていませんが、ふと僕らを前にして「あぁ、このかしの木が見れなくなっちゃうと思ったら、寂しいなぁ・・・」と、つぶやいていた記憶があります。
自分の母校に、昔ばなしのように語り継げるものがあるのは、幸せなことだとしみじみ思いますねぇ。

昨日は、朝から電車に乗って都内に向かいました。

カメちゃん&カイちゃんにお伴をしてもらって、DCCさん主催のセミナーを一緒に受講しに行きます。

僕らの会社が、今年力を入れていきたい重点項目が、理念の浸透とチーム作り。

というわけで、このブログでも何度も紹介している、HSコーポレーションの星野代表から、「大家族主義」についてのお話を、共に学んできました!!


先生 その398


前半は、星野さんが「なぜ治療家になったのか?」という原点の部分にフォーカスしたお話でした。

星野さんが高校に進学するころ、一家はお父さんの転勤の都合で、神奈川県に引越すのですが、彼だけは当時住んでいた三重県に残り、一人暮らしをしながら高校に通います。

当時の星野さんから見たお父さんは、「サラリーマンってつらそうだなぁ・・・」と映り、憧れの対象とは程遠い存在でした。


当時小学生だった妹さんが骨折したときに、お父さんは定時に会社を退勤して家に戻り、妹さんが接骨院に通院するのに付き添っていたとか・・・。

お父さんの行為も、星野さんには「よっぽど、シゴトがつまらないんだろうなぁ」と映っていたようです。

しかし、これがきっかけで、お父さんと接骨院の先生が仲良くなり、星野さんが治療家としての道を歩むことになったわけです。


「高校生で一人暮らしを経験して独立心が強くなったこと、オヤジのシゴトが辛そうに見えたこと、妹が骨折したこと、すべてが今の自分に繋がっている」


ずっと星野さんを応援し続けてくれたお父さんも、今から9年前に他界されました。

25歳で開業してから我武者羅に働き続け、両親に仕送りを続けてきただけでも十分親孝行されてきたと思うのですが、星野さんは当時「オレとオヤジを繋げていたのはお金だけだったんじゃないか?」という疑問にぶち当たったようです。


「本当の親孝行ってなんだろう? 感謝ってなんだろう?」


そう考えて行きついたのが、HSコーポレーションさんの企業理念「大家族主義経営」だったのです。

すなわち、治療家としての進路だけでなく、今日の企業風土と繁栄のきっかけになったのも、お父さんとの関係だったということになります。


過去の体験を、笑いを交えながらもさらりと語ってくれた星野さん。

昨日のお話で特に印象に残ったのが、どんなことも「無駄では無い」という話に終始していました。

でも、これって「無駄では無い」というより、星野さんが「無駄にしていない」ってことなんですよね。

ボクも感じたこと一つ一つを無駄にしないように、感性を鋭く生きていきますよぉ!!

徒弟制度って、日本古来のシステムといったイメージがありましたが、中世ヨーロッパのドイツが発祥の地とも言われてるそうです。

いずれにしても、親方の家に住み込んで、家族同然の付き合いの中で、マナーや技術を習得していくこと。

職人の世界では大分減ってきたようですが、芸人さんの世界では、まだ健在なようです。


先生 その397


今日、1月18日は、ボクの大好きな芸人・ビートたけしさんのお誕生日ですクラッカー

(なんだか、最近このブログが林家ペーさんみたいになってきた・・・)

たけしさんといえば、今でこそ「世界のキタノ」と称される名監督ですし、ボクも「キッズ・リターン」や「菊次郎の夏」は大好きな映画なのですが、やっぱりボクの中では、「ツービートのたけし」なんです。


危険な言葉をギリギリのラインで笑いにしてしまう、テンポのいい巧みなボケ。

相方きよしさんの「よしなさい」って、ツッコミになっていないツッコミ。

他にも、「オールナイトニッポン」や「北野ファンクラブ」での、高田文雄さんとのコンビネーションや、さんまさんや、所さん、島田洋七さんとの絡みも好きでした。


そんなたけしさんのエピソードで感動したのが、弟子の浅草キッドさんが毎年恒例にしているというお大尽遊びの話。

普段は「殿」と厳格に慕っている二人が、「おっ、たけちゃん、よく来たね。まぁ、そこにかけなよ」みたいな感じでたけしさんを接待し、高級料亭でご馳走をするんです。

そのあとも、銀座のクラブをハシゴをし、帰りにはポチ袋を出して「ほら、車代」って渡すんですから、かなり徹底してますよね。


弟子のユーモアに付き合うことで、喜ばせてあげようというたけしさんの粋な計らいが素敵だなぁと感じたお話なのですが、このオチは、さらに感動させるエピソードがあったのです。


師匠であるたけしさんの家に遊びに行った浅草キッドの水道橋博士が、家の神棚で目にしたもの。

それは・・・


毎回「ほら、車代」といって渡していたポチ袋だったのです。


二人が、たけしさんの行為に感動して、号泣したのは言うまでもありません。


私には二人の子供がいます。しかし、こいつら(たけし軍団)は、実の子供以上に可愛いと思えてしまう存在なのです。


これは、ガダルカナル・タカさんの披露宴で、たけしさんからの挨拶の一説ですが、ここまで師匠から愛されていたら、弟子は死ぬ気でついていくだろうと思います。

尊敬される自分になるなら、まずは相手を本気で大切にすることからですね。

ボクも大切にしているけど、まだ自分の子供の方が可愛く思えてしまうかも・・・。

せめて同じくらい大切と言えるように、大きな愛情で包んでいく経営者になりたいです。



昨日の夜は、日本商店会の第一回総会に出席してきました。

日本全国から集まった60数名の志士たちが、みんなで血判状を押しました。

このメンバーになるための条件が、6歳当時の写真の提出。

ボクの写真もどうにか見つかったので、出来たばかりの公式HP で探してみてください。


先生 その396


日本商店会のアイデアが持ち上がったのは、昨年の9月のこと。

錦糸町の居酒屋さんで、会頭の星野さんとその仲間たちが集まった時の出来ごとだったようです。

その時にいたメンバーの中で最年少だったのが、みんなの弟分であり、ボクも大好きな後輩のヨッシー こと吉武和英さんでした。


そんなヨッシーが、日本商店会の事務局長として、経理事務関係を担当することになったのですが、理事や実行委員は、ひと癖もふた癖もある先輩たちばかりあせる

まずは会費を集めるところから始まるのですが、事務局の預金通帳を記帳しようとATMに行っても、一瞬で吐き出されます。

そう、誰も会費を納めていなかったんですね。

さすが、6歳児の集団ですあせる


「困ったなぁ」と彼が悩んでいる時に、ある先輩から画期的なアドバイスをもらいます。


「振り込まなかったら、11月の合宿(日本商店会キックオフミーティング)の時に、禁酒してもらうって脅してみれば?」


なるほど、その手があったか!!

ヨッシーは早速、メールでハッパをかけました。


「会費を納めるのが最後になった人は、合宿の時に禁酒してもらいます」


直後にたくさんの実行委員から、メールが返ってきました。


「月曜日には必ず振り込むから!!」


「禁酒だけは、勘弁して!!」


そして予定期日に銀行に行って、通帳をATMに入れると・・・。


見事なまでに、ビッシリと記帳されていました。


しかも、みんな綺麗に同じ日付で・・・。


日本商店会は、こんな事務局長の苦労があって、スタートしました。


しかし、その後はメンバー相互の尽力によって、昨日の時点での会員数は131名に増え続けてます。

「共に学び、共に成長し、共に勝つ」

ボクも星野会頭が掲げた理念に共感し、これからの不透明な変革期に打ち勝っていく企業を、再構築していきます。


入会するかどうか迷っている方。

まずは、監査役の今井司さんが作ったカッコいいPVを観ていただき、こちら から申し込みしちゃいましょう!!


そして、奇遇なことに、吉武家にも今年の5月に第一子が誕生予定!!

生まれてくる子供のためにも、お互いにいいスタートが切れそうです。