2011年3月12日。テレビからは津波と大きく破壊された原発の映像が繰り返し流され、東京で暮らしている我が家でも張りつめた緊張感がみなぎっていました。

 

原発の水素爆発、まだまだ活発な地震活動が続く中、3月14日からは計画停電も始まり、同業の先輩方からのSOSで大量の引継ぎ依頼が殺到しました。締切りは変わらないのです。有事であっても、業務の遅れに対する責任を重視してルーチンワークの維持を優先する、まだまだそういう時代でした。

当時、私の母は和食店でパート従業員として働いていましたが、震災2日後には「タクシー使ってもいいから、とにかく店に来てほしい」と言われ出勤していきました。来店は3組6人だったそうです。

 

ニュースでは連日、当時の官房長官が「直ちに健康に影響はない」を連呼し、詳細に放射線量の値を報じていました。落ち着くどころか、むしろ日毎に緊張感が増していきます。そんな中、妻が震災翌日から再開している早朝ウォーキングに出かける後ろ姿は、逞しく、とても輝いて見えました。