正確に言えば、眠れないのではなくて、電気点けたまま寝落ちしちゃって3時半頃起きて、そのタイミングでビスコが「ウンコ連れてって」と言うので少し散歩をしたら空が薄れてきて。


ブログに書いてまで誰かに伝えたいことなんて何一つないんだけど。


そう、これは自分との対話のような、安定剤のような、浄化のようなもの。


それだけなら日記で済むので、誰かの暇つぶしにでもなれば、と言い訳のひとつでも。


我ながら、言葉に依存して生きていると思う。


人を好きになるのも、嫌いになるのも言葉によるところが大きい。


何もきれいな言葉や丁寧な言葉が好きで、ぶっきらぼうな言葉が嫌いなわけではない、うまく伝える事はできないけれど。


そしてその取捨選択の表明は、相手の言葉を奪ってしまっているのではないかと感じる事もある。


あまり人に言った事はないが「たぬかな」の言葉が好きで、YouTubeなど配信系のものを見る習慣はないが、「たぬかな」だけはふと思い出し検索をして見ている。


意図的に誰かを傷つけようとはしてけれど、誰かに嫌われても仕方ないし、その分好きな人もいてくれるのがお店や人に限らず、それが世界の縮図のように感じていて、ネットやSNSでの口コミやスーパーのご意見板をみては「そんなに満足出来ないなら自給自足で暮らせばいいじゃねえか」や「そもそも外食なんか向いてないんだから家で飯食ってろ」くらいしか感想がなくてわざわざそれを書く事で浄化出来ないなんて無様な奴だなと憐れみの目で見ている。


この夏に食べに行った古びた食堂でかき氷を注文すると「ちょっと待ってください」と厨房へ駆けて行き、しばらくして戻ってくると「大丈夫です。うちのお店年に一回くらいしか出ないものでイチゴかブルーハワイならあります。」というのでイチゴを注文して「うまい、うまい」と食べていると黒い粒が見えて「種かな」と確認してみると小さな蟻が7匹くらい入っていた。


しばらく使ってなかったシロップがいけるかどうか判断した結果、蟻が混入している事に気づかず提供されたのだけど、自分がお店側だったら酷く落ち込むところ、食べる側に回ったら「蟻避ければいいや」と蟻を取り除き食べ続けたこと、今になっても良い話だなと思うし、それくらいのスタンスの方が楽に生きられる気がしていている。


わざわざ「ここのお店だ」なんて書く気なんか起こらないけれど。


老夫婦で営む食堂に行ったのもこの夏だ。


やっているかどうかもわからない扉を開けたところ、久々に「このお店は大丈夫なのか?」と感じた。

結果、2卓あるテーブル席のひとつは老夫婦の居間と化し、世間話をしながらつつく昼食は滋味であったし、「これ食べるかい?」とあとから持ってきてくれた天ぷらはどう考えてもさっき揚げたのではない、何なら朝でもない「お前らの昨日の夕飯の余りなんじゃねえのか」くらいしなしなしていたが「ありがとうございます」と完食するくらいの間口の広げ方は寛容力に似た防御力。


これは先月、自分のお店で起こった事。


初来店のお客さんのお会計をすると何やら不穏な動き。

「あー、これは久しぶりにあれだな」と思ったら案の定「お会計◯◯◯◯円くらいだと思うんですけど」と、なり「一緒に確認してみましょう」とひとつひとつ注文したものを確認すると、ひとつ食べたものを忘れていたみたいで事なきを得て、お客さんは平謝りをしていたけれど、こちらとしてはやましい事ないので怒ることも失礼に思うこともないし、何なら納得いかないまま帰られるよりは本当に良かったと思う。


聞けば以前行ったお店で3000円くらい多く取られた事があると言っていたし、実際にそう言う事をやっているお店もあるし、知っているし、ましてや何の信頼もない初見の怪しいお店だから仕方ないことだよなあと思っている。


それをやっているお店のオーナーが問い詰められ「他の店だってやってるし」と開き直った人がいるのを知っている。


考え方はおかしいけど、例えば10人のご予約で3000円誤魔化してそれを何件もやれる規模ならいい売上になるけど、うちみたいな小規模のお店で少人数で来て1杯600円誤魔化したとしても、失う信用と天秤に掛けたら割にあわないでしょうよ。


なのでそれくらいの事では怒らないので、本当に間違えている時だってあると思うし、何かおかしいと思う時は確認して欲しいし、その事で来づらくならなければよいなと思った次第。


昨日あった「箸置きもらってもいいですか?」は、何度思い出しても無礼だと感じるけど「酔っ払いだからしょうがねえか」と自分を納得させるそれも心の防波堤。


先日お昼を食べに行ったお店で狂った客を見たけれど、シラフでああいう場合「あれは気狂いだから」と高めの防波堤を築くことしか対処出来ないので、このまま酒を提供するお店でいようと思ってる。


おやすみ。