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今夜、ホールの片隅で

東京在住クラシックファンのコンサート備忘録です。

■東京都交響楽団 第1026回定期演奏会Bシリーズ(25/9/4サントリーホール)

 

[指揮]大野和士

[ヴァイオリン]アリーナ・イブラギモヴァ*

 

ショスタコーヴィチ/ヴァイオリン協奏曲第2番 嬰ハ短調*

ショスタコーヴィチ/交響曲第15番 イ長調

 

没後50年のショスタコ・イヤーならではの激シブ・プロ。前半はイブラギモヴァをソリストに迎えてヴァイオリン協奏曲第2番。今やヴァイオリン協奏曲の定番の1つになった感のある第1番に比べ演奏機会に乏しく、このブログ12年目にして初めて実演で聴く。聴いてみるとなるほど人気が無いのも納得の晦渋さで、第1楽章から第2楽章にかけて、盛り上がりに欠ける鬱々たる曲想が連綿と続く。

 

不気味さに拍車をかけているのがトムトムである。録音で聴くと線を張っていないスネアかとも思うのだが、実際にはより野太い響きのトムトム。これが執拗に絡み、無遠慮に扉を叩き続ける。第2楽章の終盤に現れるホルン・ソロには、その深遠な美しさにハッとさせられる。それらを潜り抜けた第3楽章の「躁」の奇妙な明るさは、あらゆるヴァイオリン協奏曲のフィナーレを煮詰めて漉したエキスのようでもある。この楽章の長大なカデンツァを頂点として、没入感の深いイブラギモヴァのソロが素晴らしく、この難曲に強かな生命を吹き込んだ。

 

後半は今年珍しく演奏機会の多い交響曲第15番。室内楽版ではなくオリジナル版の実演はかなりご無沙汰で、2016年7月のラザレフ&日フィル以来。久しぶりに聴くとやはり聴きどころには事欠かない曲で、当夜の演奏では特に第2楽章に聴き応えがあった。チェロを筆頭に剥き出しのソロが代わる代わる孤独に語り、時々思い出せない怖い夢のような不穏な和音が鳴り、葬送のリズムがいつしか爆発へと至る。極小から極大まで、シンフォニーでしか表現し得ないサウンドスケープが短時間に凝縮されている。

 

チェレスタとヴィブラフォンが1音ごとにぐわんぐわんと揺らめきながら鳴り響くくだりなど、もうほとんど「怪談」である。この作品全体が、名人が語る上等な怪談噺と言っていい。ショスタコの交響曲で最も好きな最終楽章のコーダも、スーッと汗が引くような涼やかな美しさ。この曲の第1楽章を「お祭りの夜店を巡り歩くような」と評した人がいたけれど、怪しげな夜店や怪談を経てとびきりクールな結末が待つこの曲こそ、残暑厳しい夏の夜の暑気払いに相応しい。大野&都響の適性を端的に示す好演で、これまでに聴いたタコ15のベストに挙げたい。

■2025セイジ・オザワ松本フェスティバル オーケストラコンサートBプログラム(25/8/31キッセイ文化ホール)

 

[指揮]クリストフ・エッシェンバッハ

[管弦楽]サイトウ・キネン・オーケストラ

[ソプラノ]アレクサンドラ・ザモイスカ

[アルト]藤村実穂子

[合唱]OMF合唱団、東京オペラシンガーズ

 

マーラー/交響曲第2番 ハ短調「復活」

 

この夏2度目の松本行き。「小澤征爾生誕90年を祝う」と題されたオーケストラコンサートBプロは、エッシェンバッハがマーラー「復活」を振る。開演前にはステージの両脇に設置されたスクリーンに、音楽関係者たちから小澤さんへのメッセージや、在りし日のマエストロのスナップ写真などが流れ、終演後のカーテンコールでも、小澤さんの顔写真がステージを見守っていた。

 

エッシェンバッハの指揮に接するのは、2017年10月のN響定期以来だから約8年ぶり。しばらく見ない間に、歩くのが極端に遅くなり、指揮台に上がる足取りも覚束ない様子。指揮台に置かれた椅子に腰かけて振り始めた。大きな動きや激しい動きはもうほとんどできないようで、背後から見ていると、肘から先の手の動きが大きな背中に隠れてほぼ見えない。自然、アンサンブルも針の穴を通すようなものにはなるべくもなく、ざっくりと開けたほぞ穴にダイナミックにほぞを通すようなマーラーに。悠揚迫らざると言うか、巨匠指揮者の時代の残り香を感じさせる第1楽章。

 

第2楽章では、弦楽合奏による主題に乗って伸びやかに泳ぎ出すチェロの対旋律の、何とノスタルジックで甘いこと。単に美しく長閑な緩徐楽章に留まらず、極めて個人的な来し方と自ずと結び付いたかのような、苦味もしょっぱさもある甘さ。この楽章からここまで味わい深いニュアンスを引き出せるのも、巨匠の至芸と言うべきだろう。第1ヴァイオリンの後ろ、下手手前に配置されたハープ2台(池城菜香・早川りさこ)が、この楽章だけでなく全編で存在感を発揮。マーラーが書いたハープ・パートの類い稀な精巧さを余すところなく伝えてくれる。

 

独唱の2人は第3楽章終盤の盛り上がりで登場、合唱の中央手前にスタンバイ。第4楽章「原光(プログラム表記は「さいしょの光」)」を藤村さんが歌い始めると、会場の空気がはっきりと変わる。分かち難く歌詞と声とが一体化した、音楽を「生きる」としか言いようがない、現代最高峰の「原光」。この数分間を聴くためだけにでも松本まで来た甲斐があるというもので、まったく、痺れっちまう。最終楽章では、合唱が指揮者の指示を待つまでもなく、自発的に歌っているように聞こえる。クライマックス間近では、オケと合唱のズレ方がかなり危うい場面もあったが、こんな演奏ではそれさえ大きな問題にはならない。

 

これまでどこか近寄り難くもあったこの曲の歌詞が、この音楽祭で、このタイミングで演奏されることで、かつてないほど具体的な意味を帯びて、パーソナルな「機会音楽」として鳴り響いた。これはエッシェンバッハ以下、演奏者個々人が丹精込めた手作りの誕生日プレゼントだろう。もとより生の音楽はことごとく手作りのはずだが、心からそう感じさせてくれる演奏にどれだけ出会えていることか。それに多少のキズや不手際があったとしても、ラッピングまで完璧に計算されたブランド品なんかより、こんなプレゼントの方が得てして記憶に残るものだ。

 

カーテンコールでは一度退場したきり出てこなかったエッシェンバッハ。オケのメンバーが全員退場し、合唱団の退場も終わりかけた頃、独唱2人に伴われて再び現れ、鳴りやまない拍手に応えてくれた。

■2025セイジ・オザワ松本フェスティバル オペラ公演(25/8/17まつもと市民芸術館)

 

ベンジャミン・ブリテン/夏の夜の夢

 

[指揮]沖澤のどか

[演出・装置・衣裳]ロラン・ペリー

[管弦楽]サイトウ・キネン・オーケストラ

 

[オーベロン]ニルス・ヴァンダラー

[タイターニア]シドニー・マンカソーラ

[パック]フェイス・プレンダーガスト

[シーシアス]ディングル・ヤンデル

[ヒポリタ]クレア・プレスランド

[ライサンダー]デイヴィッド・ポルティーヨ

[ディミートリアス]サミュエル・デール・ジョンソン

[ハーミア]ニーナ・ヴァン・エッセン

[ヘレナ]ルイーズ・クメニー

 

昨年に続き、セイジ・オザワ松本フェスティバルに遠征。この音楽祭でオペラ公演を鑑賞するのは初めて。ブリテンのオペラの実演に接するのもこれが初めてだが、この音楽祭では過去にも「ピーター・グライムズ」や「戦争レクイエム」などブリテンの主要作を上演してきた実績がある。そして今思えば、昨年の音楽祭で沖澤さんが振ったメンデルスゾーン「夏の夜の夢」は、今回のオペラの2年越しの序曲でもあった。会場のまつもと市民芸術館も初訪問だが、オペラを観る箱として実に程よい空間で、これまでオペラを観てきた会場の中でもベストと言っていい(以下、ネタバレ注意)。

 

ロラン・ペリー演出のこのプロダクションは、2022年にフランスのリール歌劇場で初演されたもの。幕が開くと、真っ暗な舞台にベッドがぽつんと1台(誰かが寝ている)。上には星空が輝き、下にも現れた光るものたちは妖精で、児童合唱が始まる。上から逆さまになって降りて来たパックを始め、オーベロンもタイターニアも妖精役はワイヤーを駆使した宙乗りで、暗闇の中をふわりふわりと舞い続ける。その曲線的な軌跡が何ともエレガント。光と闇のコントラストが印象的な舞台で、第2幕で芝居の稽古をする職人たちは、闇夜の中ライトを点けた自転車を乗り回して森に集まってくる。

 

妖精たちはモノトーン&シック(歌舞伎役者のような白塗り)、職人たちはカラフル&カジュアル、2組のカップルはパジャマ姿で登場。第2幕のカップル4人による修羅場では、キャスター付きのベッド2台や枕など小道具の使い方が上手い。第3幕の恋人たちの朝の四重唱では、横一列に並んだ4人が直線的に前後に移動をくり返しながら歌う。第3幕後半の職人たちの劇中劇は、扉を使ったコント仕立ての演出で、客席のクスクス笑いが絶えなかった。舞台の背景は鏡張りになっていて、ピットで指揮する沖澤さんの姿がずっと映っている。終盤にはその鏡いっぱいに客席が映し出される照明のマジックも。

 

歌手陣ではまずタイターニア役のシドニー・マンカソーラを挙げたい。甘くまろやかなソプラノで、ロバ頭のボトムへの愛を歌う場面など最高にコケティッシュ。シーシアス役のディングル・ヤンデルは、限られた出番ながらも格調高い歌唱で存在感を発揮。パック役のフェイス・プレンダーガストの、本職の歌手とは異質なよく通る地声も、このオペラの成功に不可欠なピースだった。そして沖澤さんの小気味いいタクトが冴え渡る。オーケストラの指揮者というより、音響効果の現場監督のようだ(優れたオペラ指揮者が得てしてそうであるように)。名手揃いのSKOが、それに応えてソロの見せ場を難なく決める。

 

そしてブリテンの音楽そのものがとにかく素晴らしい。チェレスタやチェンバロを含む小編成のアンサンブルから、おもちゃ箱をひっくり返したような新鮮な響きが次々に飛び出してくる。パックが登場するたびに鳴らされるラッパと太鼓は、さながら妖精の出囃子のよう。ニュルニュルとした低弦のグリッサンドが夜の森の世界へと誘う第1幕冒頭、4つの和音が楽器を替えて上昇をくり返す天体図のような第2幕冒頭、そして夢から醒めたアンニュイな朝の気分が立ち込める第3幕冒頭と、3つの前奏曲の部分にこの作品のエッセンスが凝縮されている。演奏会形式で音楽のみに集中して聴いてみたい気もする。

 

シェイクスピアの原作は未読だったので、この機会に福田恒存訳で読んでみた。オペラではかなり忠実に原作のセリフを活かしながらも、多すぎる登場人物が巧みに整理されているのが分かる。何より、英語のテキストにそのまま曲を付けているのが良い。シェイクスピア作品を基にした音楽に成功例が案外少ない気がするのは、やはり英語特有の華奢な響きと、厚化粧しない音楽が必要だったからではないか。その意味でブリテンのこの作品こそは、音楽版シェイクスピアの極め付きと言えるのでは。

■新国立劇場オペラ公演(25/8/15オペラパレス)

 

細川俊夫/ナターシャ(世界初演)

 

[指揮]大野和士

[演出・美術]クリスティアン・レート

[管弦楽]東京フィルハーモニー交響楽団

 

[ナターシャ]イルゼ・エーレンス

[アラト]山下裕賀

[メフィストの孫]クリスティアン・ミードル

 

昨シーズンは目ぼしい演目が見当たらずスルーしてしまったので、2シーズンぶりに訪れるオペラパレス。今季の狙いはラインナップ発表時から「ナターシャ」一本に決めていた。大野芸術監督が打ち出した日本人作曲家への新作オペラ委嘱シリーズの第3弾であり、今回は台本に多和田葉子氏が起用された。多和田さんの作品はそれほど多く読んでいる訳ではないけれど、その独自の世界観に惹き付けられてきた作家であり、新作オペラではどんなドラマが展開されるのか、大いに興味があった。2018年2月の新国オペラ公演「松風」が忘れがたい細川俊夫氏の新作初演という期待感もある。

 

テキストは多和田氏らしく、「日本語、ドイツ語、ウクライナ語ほかによる多言語上演」という形を取る(日本語及び英語字幕付き)。アラト役の山下裕賀は日本語で語り歌い、ナターシャ役のイルゼ・エーレンスはドイツ語とウクライナ語で語り歌い、ほかの役や合唱も含め多数の言語がポリフォニックに交錯する。海辺で出会ったナターシャとアラトという2人の難民が、自称メフィストの孫に導かれ、現代の地球の7つの地獄(森林地獄・快楽地獄・洪水地獄・ビジネス地獄・沼地獄・炎上地獄・旱魃地獄)を巡るというプロット。序章と7場(7地獄)の全1幕で、第4場の後に休憩30分が入り、上演時間は約2時間35分。

 

最初に、人々の息遣いのような音が聞こえてくる。その呼吸音は風の音のようでもあり、波の音のようでもある。それが生音なのか、加工された音源なのか、どこで発せられているのかもよく分からない。舞台上のスクリーンには、波紋のような映像が映し出される。やがて「海」という言葉が30以上の言語で囁かれ始める。いくつもの人影が動かずにじっとしているのが見える。混沌の中から、始まりの場所である海の情景が次第に立ち現れる。

 

劇場全体を巻き込んだ音響設計が非常に印象的。特に有馬純寿氏が手掛けた電子音響が、このオペラのキモとも言うべき重要な役割を果たしている。それはいわゆる電子的サウンド(快楽地獄でのエレキギターやビジネス地獄でのテクノ風音楽など)に留まらず、水の音を初めとする様々な自然音、さらには合唱を含めた人の声も含まれる。それらを単なる効果音ではなく、音楽の一部として(電子音響パートとして)「演奏」する。それら「生」電子音響が、客席の前後左右に設置された20を超えるスピーカーから再生される。聴き手は終始、どこから聞こえてくるのかも分からない、生音と電子音響とのあわいを漂うことになる。

 

その分、歌手やオケの存在感は相対的に弱まるが、それでも印象に残る場面がいくつか。沼地獄後半の、ナターシャとアラトが眠りにつくまでの音楽がうっとりするほど美しい。3拍子が高速回転するミニマルミュージック風のビジネス地獄は、全編で唯一スケルツォ的なリズムの愉悦がある。音楽的な核心は炎上地獄で、アラトに始まりナターシャへと行きつく長大な「嘆きのアリア」こそ、今作随一の絶唱だろう。ハープやチェロのソロを伴いながら、2音ずつ途切れ途切れに(吐息混じりに)歌われるシンプルな旋律は、聴いてから数日を経た今もまだ耳に残っている。

 

果たしてこれはオペラなのか?という素朴な実感もある。感覚としては、どこぞのパビリオンのVR体験に近い気もするし、多分に詩的な多和田氏のテキストの音楽と映像付きの「朗読」のようでもあるし、壮大な筋書きと生身の人間を使ったインスタレーションと言えなくもない。そうした見方自体がおそらくは時代遅れで、必然的にボーダーレスになっていくのが現代オペラの在り方なのだろう。一見使い古されたように思えるメフィストや地獄巡りやバベルの塔といったモチーフも、作品をオペラたらしめるのに最低限必要なレシピだったのかもしれない。

 

最後、地獄の底辺で水鏡に映った逆さまのピラミッド=バベルの塔を見出したナターシャとアラトが、ゴンドラに乗って天井近くまで上昇し、その下の舞台に現れたいくつもの人影が、奥に向かってゆっくりと歩き始める。希望とも、諦観とも、浄化ともつかない複雑な余韻に包まれて、涼やかなアンティークシンバル(?)と水の音だけを残し、世界は静寂へと還る。

■フェスタサマーミューザ 東京交響楽団 フィナーレコンサート(25/8/11ミューザ川崎シンフォニーホール)

 

[指揮]原田慶太楼

[ヴァイオリン]服部百音*

 

芥川也寸志/八甲田山(1.八甲田山(タイトル)、10.徳島隊銀山に向う、37.棺桶の神田大尉、38.終焉)

バルトーク/ヴァイオリン協奏曲第2番*

(アンコール)ファジル・サイ/「クレオパトラ」より*

ニールセン/交響曲第4番「不滅(滅ぼし得ざるもの)」

(アンコール)山本直純/好きです かわさき 愛の街

 

今年のサマーミューザはこれ一択。フィナーレコンサートにしては渋くて骨のあるプログラムがいい。プレトークには指揮者とソリストが登場。選曲の意図からグッズの宣伝まで、笑いを取りながら淀みなく語る原田さんは、今プレトークをさせたら最も上手い指揮者では。百音さんもなかなかに饒舌で、難曲のバルトーク2番について、ソロ・パートをいくら練習しても曲を覚えられず既存の録音を聴きまくったなど、ソリストならではのエピソードが聴けて充実したプレトークだった。

 

1曲目は芥川也寸志の映画音楽「八甲田山」(単なる抜粋ではなく、この4曲で組曲らしい)。生誕100年の今年、各楽団がこぞって芥川作品を採り上げているが、中でもこれはかなり珍しいレパートリー。この映画自体は観たことが無く、映画音楽にも聴き覚えは無いのだが、いかにもベタな昭和の劇伴調が逆に新鮮。しかも壮大なシンフォニック・サウンドで聴いてしまうと、これに見劣りしない「絵」を撮るのはさぞ大変だろうな…などとあべこべの心配をしてしまいそう。

 

続いて没後80年のバルトークのヴァイオリン協奏曲第2番。この曲、いつもハープで始まる冒頭部分がたまらなく魅力的…と思いつつ、聴き始めるとすぐに迷子になってしまう困った曲。この日も第1楽章の半ばでウトウトしかけたが、第2楽章のひんやりとした静謐な場面では覚醒、もう1人の主役とも言うべきハープのパートが全編に渡って冴え冴えと美しい。でも「主題と変奏」として構想されたというこの作品、どれが主題でどこでどう変奏されているのやら、最後までさっぱり分からない…。

 

ショスタコやプロコのイメージが強い百音さんだが、このバルトークも入魂の演奏。終演後、細い身体を90度に曲げた長いお辞儀と、精も根も尽き果てたような退場時の足取りが熱演を物語る。アンコールは無くてもよさそうだったが、ピチカートやフラジオレットを駆使したこれまた難しそうな曲をやってくれた。

 

後半は生誕160年のニールセン4番。東響で聴くニールセンの交響曲は結構レアで、スダーンもノットも振っていないはずだが、実は第4番の日本初演は秋山和慶&東響だったとか。さらにプレトークで原田氏曰く、第4部のダブル・ティンパニを舞台奥の左右に配置するのは間違いで、第2ティンパニは客席のなるべく近くに配置すべし、というのが作曲家の指示なのだそう。この日の配置は、第1ティンパニが舞台奥の中央で、第2ティンパニは下手手前の第1ヴァイオリンの後方。その効果はてきめんで、遠近の立体感がかつてない音響で迫って来る。

 

全体として、原田氏らしい溌溂とした音楽性が際立つ快演。ニールセンの作品に通底するポジティブな気質と、指揮者の個性がマッチしていると思う。この曲の魅力として、原田氏はサウンドの「破壊力」を挙げていたけれど、むしろどれだけ荒ぶろうとも決して破壊されない、しなやかに強かにハーモナイズされた音楽という印象が残る。それこそが「不滅=滅ぼし得ざるもの」という表題の1つの解なのかもしれない。そして終わってみれば、ダブル・ティンパニの乱れ打ちも華々しく、お祭りを締めくくるのに相応しいフィナーレでした。

 

この映画をご存じの人は、多分私と同じか上の世代の人だろう。1986年公開の日本映画で、監督はこれが商業映画デビューだった山川直人。今は無き渋谷のパルコパート3の上階にあった映画館へ観に行った記憶がある。妙に気に入ってしまい後日VHSのビデオ版を購入、さらにDVDに買い替えてずっと保有している。とっくに廃盤で入手困難になっているかと思いきや、今では配信タイトルとして気軽に観ることができるようになっていたんですね。この映画、たまに無性に観たくなって、これまでに7~8回は観ていると思うのだが、先日かなり久しぶりに観直してみた。

 

アメリカのモニュメント・バレーでロケしたオープニングとエンディングのシーン以外は、全編ワンセットで撮影されている。若き三上博史扮するビリィ・ザ・キッドがふらりと訪れた酒場「スローターハウス」での、4日間の出来事が4つの章で描かれる。その店ではギャングの襲撃に備え個性的な用心棒たちが雇われており、その仲間に加わった三上博史はウェイターとして、ひと癖もふた癖もある客たちの相手をすることになる…と、そんなストーリーはさして重要ではなく、見どころは何と言っても、入れ替わり立ち替わり現れては退場する奇想天外なキャラクターたちであり、そのキャスティングである。

 

娘を溺愛するマスター(石橋蓮司)、ローラースケートを履いた中島みゆき(室井滋)、タバスコ中毒のミステリアス美女(真行寺君枝)、居合い抜きで何でも切ってしまう宮本武蔵(内藤剛志)、擬人化された電話番号案内104(ラサール石井)、部下たちと張り込みを続ける刑事長(原田芳雄)、ヒーラモンスターの老婦人(北林谷栄)、「ココアくれやココア」の巡査(神戸浩)、マガジンハウスの雑誌だったポパイ(日比野克彦)、女連れの某国立大教授(栗本慎一郎)、ナレーター&リポーター(三宅裕司)…等々、当時のサブカルや演劇界隈を中心とした名優・怪優がぞろぞろと出てくる(原案の髙橋源一郎も本人役で登場)。

 

個々のセリフまで覚えてしまったほど何度も観ているけれど、今改めて観て思うのは、登場人物たちが実によくしゃべるということ。その発言は自己中心的で、脈略が無く、芝居がかっていて、観念的だったりもするけれど、しゃべることそれ自体に清々しいほど迷いが無くて、どんな他愛のない言説でも許容されてしまうだろう風通しの良さがある。いかにも当時(バブル前夜)の空気感を封じ込めたような本作だが、そこに懐かしさと同時にある種の「取り返しのつかなさ」を感じてしまうのは、初めて観た時の自分が若かったせいばかりではないだろう。

 

* * *

 

この映画は音楽も大きな魅力。ガールズバンドのZELDAがテーマ曲を手掛け、メンバー4人が本人役で出演もしている。劇中のライブシーンで「湖のステップ」「スローターハウス」の2曲を披露しており、それらの楽曲が含まれたアルバムを当時よく聴いたものだ。それから、加藤善博扮するサンダース軍曹が酒場のピアノで弾く1曲が忘れがたい。これに合わせて三上博史とローラースケートの室井滋がしっとりとダンスを踊るシーンは本作屈指の名場面だが、この曲(クラシックのピアノ曲)がいったい何の曲なのか、長らく知る術が無くて分からないままだった。

 

それがベートーヴェンのピアノ・ソナタ第19番の第1楽章であると知ったのは、ずっと後のこと。ベートーヴェンが弟子の練習用に書いたとされる簡易ソナタで、「ソナチネアルバム」にも楽譜が収録されている。ピアノが弾けなくてもこれなら何とかなりそうな気がして、一度音を鳴らしてみたこともあったが、出だしの左手の重音からして思うように指が動かず、あえなく挫折…。

 

この曲、実演でも滅多に聴けないのだが、今年6月のアリス=紗良・オットのリサイタルで、思いがけず採り上げられた。そのテンポが、映画で聴く倍速ぐらい快速なのだ。楽譜ではアンダンテ/4分の2拍子だが、映画では4分の4拍子ぐらいの感覚。だからアリスさんの方が正解なのだろうが、自分の中ではこの曲は、サンダース軍曹がたどだどしいタッチで弾くスローテンポの印象がこびりついて、いつまでも離れそうにない。

 

「甘美、恍惚、陶酔……」という帯文に惹かれ、ちくま文庫の新刊「領土」(諏訪哲史・著)を読む。「シャトー・ドゥ・ノワゼにて」「尿意」「市民薄暮」「真珠譚」「百貨店残影」「聖家族学園」「甘露経」「湖中天」「中央駅地底街」「先カンブリア」…タイトルからして魅惑的な10編から成る幻想小説集。2011年に刊行された単行本の文庫化で、かなり読者を選ぶであろう作風だが、幸運にも私は「選ばれた」方の1人。これまでこの作者の存在を全く認識していなかったのはいかにも不覚だった。岡上淑子を思わせるコラージュの挿画(山下陽子)にも大いにそそられる1冊。

 

「澁澤龍彦と種村季弘から学んだエロティシズムやグロテスクを崇高さへ昇華させる反道徳文学の書き手」と作者が自認する通り、巻頭の一編を少し読んだだけで澁澤っぽさが充溢。のみならず、賢治、十蘭、百閒、足穂、寺山ら幻視者の系譜に連なる地下水脈が、その作品世界に縦横に張り巡らされている。この手の作品では、しばしば美文調だったり、擬古的な文体のこだわりが鼻につくものだが、諏訪氏の筆致はあくまでも明瞭平易で、読みにくさが微塵も無いのは特筆すべき。ジェンカ、ポートボール、リリアン、キャンディー・サークル、アドバルーン、学校の水道の蛇口に垂れ下がるミカンの赤い網袋に入った石鹸…等々、同世代のノスタルジアを喚起するアイテムの選択も心憎い。

 

これはまた、音楽的に「記譜」された小説の試みでもある。10編の作品は、後半へと読み進むにつれ、句読点が省かれ、改行が多くなり、文字間の空白(2字空け・3字空け)も頻出するようになる。それは「黙読する読者の脳裏で無意識に吟詠朗唱される文章の音(おん)や拍子に指示譜=楽譜の働きを付加するため」であり、「文体の要素の大半は律動・抑揚等の音楽性であり、ゆえに僕はどうしても「譜面」を試みたかった」と作者はあとがきで述べている。そうした表記上の企みに加え、よく知られた歌の一節がしばしば引用されたり、音だけでは意味不明なお経のフレーズをリフレインさせたり、描き出される鮮烈なイマージュと同等以上に、音感にも極めて饒舌に訴えかけてくる。

 

本編もさることながら、2つの「あとがき」も中身が濃い。単行本刊行時のあとがきでは、前述の文体の話に先立って、まず「ここにまとめた十の短編は、いずれもが「小説」である」と宣言する。作者は「小説とは何か」という問題に極めて意識的で、小説・詩・童話・戯曲・俳句・落語といった既存のジャンル分けに与しない表現は、すべからく「小説」たるべし、という立場を取る。それから14年後の「文庫版あとがき」では、その間に起こった小説を取り巻く環境の劇的な変化について触れ、最後にAIの普及によって「文学は終了です」と断ずる。かつて孤高の王国だった幻想耽美の沃野は、無残にも侵され続けもはや風前の灯火。それを予感しての「領土」だとしたら、切なくも愛しい。

■東京交響楽団 第732回定期演奏会(25/7/21サントリーホール)

 

ブリテン/戦争レクイエム

 

[指揮]ジョナサン・ノット

 

[ソプラノ]ガリーナ・チェプラコワ

[テノール]ロバート・ルイス

[バリトン]マティアス・ウィンクラー

[合唱]東響コーラス

[児童合唱]東京少年少女合唱隊

 

ブリテン「戦争レクイエム」もこれまで聴かずに来てしまっていた作品。ノット監督のラスト・シーズンに採り上げられるこの機会にしっかり聴いておきたい。元々第二次大戦終戦80年の節目でもあるが、選曲された時点では、このような世界情勢は予期していなかったという。事前に参考にした演奏は、2009年に小澤征爾が指揮したサイトウ・キネン・フェスティバルでのライブ録音。

 

ラテン語の典礼文に加え、戦場の悲惨さを歌った従軍詩人ウィルフレッド・オーウェンの英語の詩が挿入され、前者がソプラノ独唱、合唱、オーケストラによって、後者がテノールとバリトン独唱、独立した12名の室内オーケストラによって演奏される。第二次大戦で破壊されたコヴェントリー大聖堂の再建を記念して委嘱され、3人の独唱者には敵国として戦ったロシア、イギリス、ドイツの歌手が想定されたという。

 

歌詞対訳を読みながら初めて全曲を聴いてみた第一印象は、頭の良い人が作った作品だな…ということ。非常によく出来ていると思うけれど、音楽としては智に勝り過ぎているのではないか。言葉では表現し得ない領域を、より直感的にシンプルに表現するのが音楽というものではなかったか。だとするならば、これはちょっと頭でっかちな音楽とは言えまいか…。CDをくり返し聴きながら、そんなことを考えていた。

 

東響の定期は、通常はサントリーの翌日がミューザだが、今回は順番が入れ替わり、先に行われたミューザでの模様がニコ響でライブ配信された。いつもならネタバレになるので先に配信で聴くことはしないのだが、今回に限っては絶好の機会なので予習の総仕上げとして聴いてみた。ニコ響で字幕付き作品を聴くのも初めてだと思うが、字幕のテキストが逐一テロップでも表示されて、作品理解の上で非常に役立った。

 

で、この演奏がとても良かったのである(安物のイヤホンで聴く貧弱な音質だったにもかかわらず)。頭でっかちと思われた楽曲に、生身の指揮者、オケ、歌手、合唱が血肉を与えることによって、音楽が生き生きと立ち上がってくる。いや、サイトウ・キネンのCDももちろんそうした記録なのだが、馴染みの指揮者やオケが映像付きで発信する情報量には敵わない。初めてこの作品の「リアル」に触れた気がした。

 

さて、サントリー定期当日。ステージ上の配置は、上手手前に12名の室内オーケストラ、指揮台の上手側にテノール、バリトン独唱。Pブロックに合唱、その奥中央のオルガン席の位置にソプラノ独唱。見えない場所から聞こえてくる児童合唱とチェンバーオルガンは、RCブロック後方の扉の向こう側にいたようだ。合唱は最初座ったまま歌い始め、その後も立ったり座ったりをパートごとに細かく指定されていた。

 

初めて生音でこの曲を聴いて印象的だったのは、まず典礼文パートとオーウェン・パートの受け渡しの精妙さ。とりわけ終曲「リベラ・メ」の、「怒りの日」から「俺は君に殺された敵だよ」「さあ、我々も眠ろう」そして「アーメン」に至る流れの、レクイエム史上に残る戦慄と慰撫。ソプラノと合唱の「サンクトゥス」の硬質な輝き、「ラクリモーサ」の寄る辺ない嘆き。姿なき児童合唱の、この世ならざる幽けき歌声…。

 

原案通り英・独・露出身の独唱陣もハマり役で、東響コーラスも渾身のアンサンブルを披露。もちろんノット&東響も、ニキティン以下の本隊、小林壱成以下の分隊共に密度濃いパフォーマンスを聴かせてくれた。それでも、ニコ響であれだけ良かったのだから、生で聴いたらどれほど感動するかと思いきや、案外冷静に聴けちゃったのは、やっぱりネタバレしてたから…? ともあれ、これが私の「戦争レクイエム」体験のリアル。

■Noism0+Noism1 「アルルの女」/「ボレロ」(25/7/11彩の国さいたま芸術劇場)

 

[演出振付]金森 穣

 

「アルルの女」

「ボレロー天が落ちるその前に」

 

Noismの埼玉公演を観るのは、2021年7月の「春の祭典」、2024年7月の「Amomentof」に続き3回目。今回は今年没後150年のビゼー「アルルの女」と、生誕150年のラヴェル「ボレロ」を組み合わせたダブル・ビルである(以下、ネタバレ注意)。

 

ビゼーの「アルルの女」は、専ら2つの組曲版で聴くばかりで、基になった劇付随音楽の形では聴いたことが無い。今回使用された音源は合唱付きのその劇付随音楽版で、上演時間は約55分だったが、原曲の曲順通りに全曲使用されたのだろうか。有名な第2組曲の「メヌエット」も含まれていたが、調べてみるとあの曲はビゼーの別の作品から組曲用に持ってきたもので、つまり原曲には無かったはずだが…。

 

ドーデの「アルルの女」は、原作となった短編が含まれた「風車小屋だより」を岩波文庫版で読んだことがあるが、現在絶版中の戯曲版は未読。今回の上演はこの戯曲版を基にしており、フレデリ、ローズ、ジャネ、ヴィヴェットなどの役名がそれぞれのダンサーに付いている。もちろんダンスだからセリフは無い訳だが、元の短編には無かった登場人物や筋書きを、この黙劇を通して初めて知ったことになる。

 

舞台手前のオケピの位置に広大な奈落が口を開けており、全編を通して4人の登場人物がそこに呑み込まれる悲劇である。不在のファムファタルが舞台奥に映されるシルエットによって、また家族や共同体のしがらみが頻出する大きなフレームによって象徴される。舞踊作品としてはどうしても演劇色が強くなるが、第2組曲のメヌエットやファランドールに付された動きは、ドラマと肉体の緊密な連携が見事。ダンスとしての醍醐味は、第1組曲のメヌエットのステップや、母親役・井関さんのアダージェットでのソロに凝縮されていた。

 

舞台は主要な登場人物たちが死を選び退場した後、残された主人公の弟・ジャネ(女性ダンサーが演じていた)が、1人で首を傾げている場面で幕が下りる。ドラマが終わったのは明らかだが、会場は深い沈黙に支配されたまま。再び緞帳が上がり、整列したダンサーたちの姿を確認して、ようやく拍手が起こった。

 

ラヴェルの「ボレロ」は、映像舞踊「BOLERO 2020」を4年前に「春の祭典」の前プロで観たが、あれとは別物。この作品は2023年・2024年とオケ付きのコンサート版で2回上演されているが、劇場版としては今回の新潟・埼玉公演が初披露となる。この曲はどうしたってモーリス・ベジャールの振付が目に浮かんでしまうけれど、ベジャール門下の金森氏の振付は敢えてそれを踏襲し、中心の井関さんを10人のダンサーが取り囲む「ミニ・ベジャール版」とも言うべき様相で展開される。

 

初めは黒子のような服と頭巾に身を包んでいた10人のダンサーたちが、踊りながら1人また1人とそれを脱ぎ去り、明るい色の衣装へと脱皮していく。途中で舞台後方の幕がゆっくりと上昇し、その奥に黄金色の大壁面が現れる。音楽が進むにつれて、舞台上で「生」の輝きがぐんぐん増していく。副題の「天が落ちるその前に」とは、演出ノートによれば故事成語の「杞憂」に由来し、「たとえ天が落ち地が崩れようとも今この時に全てを賭ける」という舞踊の本質への決意表明であり、祈りでもある。それを託す依り代として「ボレロ」ほど端的な音楽がほかにあるだろうか。

 

そして「ボレロ」の輝きが眩しいほど、表裏を成す「アルルの女」の奈落もまた昏いのだ。

■読売日本交響楽団 第650回定期演奏会(25/7/8サントリーホール)

 

[指揮]シルヴァン・カンブルラン

[ピアノ]北村朋幹*

 

メンデルスゾーン/付随音楽「真夏の夜の夢」序曲

細川俊夫/月夜の蓮―モーツァルトへのオマージュ―*

(アンコール)シューマン(クララ・シューマン編)/蓮の花 作品25-7*

ツェンダー/シューマン・ファンタジー(日本初演)

 

カンブルランは2019年3月の読響常任指揮者退任時に聴いて以来だから約6年ぶり。演目は3曲だが、モーツァルト、メンデルスゾーン、シューマン、ツェンダー、細川俊夫という5人の作曲家が絡むカンブルランならではの冴えたプログラム。ペルトコスキやカネラキスがマーラーを振ると完売御礼になる客席も、この日はかなり空席が目立つのが寂しい。

 

1曲目のメンデルスゾーンは、当夜のプログラムの扉を開く序曲であると同時に、個人的にはこの夏の「夏の夜の夢」を巡る旅の序曲でもある。なおこの曲のタイトルにある「ミッドサマー」は「夏至」のことで、季節的にまだ真夏ではないので、「真夏の夜の夢」と訳すのはどうか…と何かの解説で読んだが、東京はもはや夏至の時期でも真夏日続出である。

 

2曲目の「月夜の蓮」は、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番の緩徐楽章を本歌取りした作品。以前テレビで放送された演奏(齋藤友香理&東フィル&菊池洋子)で知って気に入り、一度実演で聴いてみたいと思っていた。冒頭、躊躇いがちにピアノで仄めかされるモーツァルトの和声が、次第にメタモルフォーゼしながら終盤に至り、ほんの2フレーズだけ解き放たれる瞬間の得も言われぬ美しさ、そして儚さ。それは蓮の花の蕾が月下でみる開花の夢である訳だが、この曲を聴いていると、ピアノと蓮の蕾が同化したような、一人称的な感覚に聴き手も囚われる。お題のモーツァルトを別次元へと昇華させた名品。作曲家臨場。

 

ソロを弾いた北村朋幹氏は、今日本で最もこの曲が似合うピアニストかもしれない。本編と次のツェンダーをつなぐアンコールの「蓮の花」もよく練られた選曲で、幻想的な一夜のプログラムにもうひと花添えた。

 

後半の「シューマン・ファンタジー」は、シューマンのピアノのための「幻想曲 ハ長調」作品17を、ハンス・ツェンダーがオーケストラ版に編曲したもの。1998年に初演された作品で、今回が日本初演。ツェンダーの編曲モノと言えば、チューリヒ・バレエでも使用されたシューベルト「冬の旅」が鮮烈だったが、今度はどんな魔改造ぶりを発揮してくれるだろうか。

 

前奏曲・廃墟・間奏曲Ⅰ・凱旋門・間奏曲Ⅱ・星の夜、の全6曲から成り、続けて演奏される。このうち原曲の第1・2・3楽章に当たるのが、廃墟・凱旋門・星の夜で、前奏曲と間奏曲Ⅰ・Ⅱはツェンダーが書き足した部分。この部分は、Pブロック後方の通路に間隔を空けて配された8人の弦楽器のバンダによって演奏され、ちょっと「展覧会の絵」のプロムナード的な効果がある。オケ本隊の編成も大きく、多彩な打楽器群の中でも、マリンバとボンゴの存在感が際立つ。特にボンゴが打ち鳴らされると、忽ちシューマンらしからぬサバンナの風がステージを吹き抜ける。

 

ただ、正直「冬の旅」ほどの衝撃は無かったかな。それにいかんせん全曲で40分超はちと長い。第1楽章(廃墟)はまだ新鮮味があったし、第2楽章(凱旋門)も事前の予想通り最もオーケストレーション向きだなぁ…と感心したけれど、第3楽章(星の夜)も半ばに至る頃には集中力も途切れがちに…。それでも大詰めでバンダと本隊の弦が掛け合う場面は美しかったが。

 

もう一度聴きたいかと言われると微妙だが、ともあれこんな珍品を持ってきてくれたマエストロに感謝。そして原曲のピアノ版が無性に聴きたくなった。