今回は、心を解放させるお話です。

心のブロックや、思い込みや、感情解放など、
このテーマだけでも奥が深すぎますので、
僕の体験から言えることだけお伝えします。

心って見えるものではないから分かりづらいですよね。

今も正直よく分かっていないと思いますが、
心が以前より軽くなっているのは確かです。


過去の思い出したくないようなネガティブな記憶を、
心の奥に封じ込め続けていたものが外れたからですね。

完全に外れたわけではないと思いますが、
ある程度は外れて軽くなったという感じです。

それは、その記憶はネガティブで嫌な体験だったと、
自らレッテルを付けたまま封印しているものでした。

嫌なレッテルを付けて重くしたまま保存していたのです。

普段はそのことを思い出すこともなく忘れていました。

思い出して嫌な気分になりたくないですからね。

いつも今しかないから関係ないと思っていました。

実際は今しかないのですが、心では関係があるのです。

今を生きていくうえでは、心が働いているからですね。


心の構造として、顕在意識と潜在意識とも言われていますが、
過去の記憶は潜在意識に関係してくるものなんだと思います。

顕在意識は表面に現れるので気づきやすいのですが、
潜在意識は心の奥になるので気づきにくいですよね。

現実的にも潜在意識が大きく関与しているとも言われています。

ここでは、心の構造の難しい説明は省きますね。

心の奥にしまい込んだ重いネガティブな記憶を
意識的に解放させていくというお話になります。


僕の体験では、心がより軽くなる体感までは、
解放させる必要性を感じていませんでした。

意識を空に例えると、心は雲のようですし、
一時的に過ぎ去るものだと思っているので、
特に気にすることもなく今にあったのです。

しかし、心が何かに反応するパターンは、
無意識的にも過去の記憶が関係してきます。

心が雲だとしたら、雨雲に覆われてしまうのは、
過去からの繰り返しのものだったりするのです。

雲がない青空で晴天のときもありますが、
今回は雲があることの例えになります。

雲にも、色々な形や種類がありますね。

白くてふかふかした綿飴みたいな雲だけではなく、
時には、台風のような雷雲になることもあります。

心の雲は、過去からのパターンが多くをしめます。

僕の場合は、その過去から来る雲のパターンが、
怒り、悔しさ、寂しさ、切なさ、弱さ、恐れなど、
ネガティブのまましまい込んでいたものでした。

でも、過去のネガティブな体験があったお陰さまで、
今の自己ができあがったのは感謝できるほどです。

それを乗り越えるために色々と頑張ってこれましたからね。

ネガティブは、力強い原動力になることが分かりました。


しかし、しまい込んだままになった感情は、
時に、起こってくる出来事に過剰反応して、
ネガティブな感情として現れてくることがあります。

それは、ネガティブな感情に蓋をしてきたものが、
その出来事をきっかけに噴出してくるからですね。

過剰反応して噴出してくるような感情は、
過去に自らネガティブだとジャッジしたまま、
心の奥に封印させてきているものが殆どです。

本当は、ポジティブやネガティブという感情も
同じエネルギーなのですが、ネガティブだけは、
表現しにくいから心に溜め込んでしまうのですね。

そのネガティブだと判断したエネルギーを溜め込み、
それが一杯になると何かのきっかけで溢れてきます。

ストレスやイライラだけではなく、
体に痛みとして現れてしまったり、
病気の原因になることもあるようです。

これは感情解放の話になりますが、
ネガティブな感情を溜め込むよりは、
普段から小出しにした方がいいです。

溜め込む人ほど爆発しやすいような気がします(笑)


ちなみに僕は、結構小出しにするタイプなのですが、
それでも溜め込んでしまっているものがありました。

浄化によってある程度は解放されたつもりでも、
心の奥の見えないところに隠れているものですね。

見えないものだから見ないようにしたり、
表には出さないようにしていたのです。

向き合ってもきりがないとは思いますが、
向き合うことで解放されていくのですね。

正直、心とはあまり向き合っていなかったです。

どちらかというと、無心でした。


今も普段、瞑想や意識共鳴をやっているのですが、
その状態としては、心と向き合うというよりは、
心を超えた意識に気づいている状態が殆どです。

しかし、今は両方とも大事なんだと思っています。

心を解放させることと、心を超えた意識に気づくこと、
両方からのアプローチによって心が軽くなっています。

心を超えた意識とは、本当の自分の意識のことですね。

今に気づいている意識とも言えます。

本当の自分の意識にただ気づいているだけではなく、
心と向き合うことで解放されることを体験できました。

最近のメッセージが以前と変わってきているのは、
意識のことだけではなく、心を解放させることで、
より軽やかになってきているのを体感しているからです。

本質的には、すべては意識とも言えるのですが、
現実的には、心を持って生きているからですね。


前置きだけで長くなってしまいましたので、
続きは次回にさせていただきます。

今回は、視点の切り替えについてお話させていただきます。

先ず最初に、人が何かを判断する基準において、
この世界には、対象とは真逆のものが存在する
ということからお話させていただきます。

真逆とはどういうことかと言いますと、一般的には、
自分の内側も外側も真逆のものがあるということです。

いくつか例をあげさせていただくと、
ポジティブがあればネガティブもあります。

良いことがあれば悪いこともあります。

好きがあれば嫌いもあります。

正しいがあれば間違いもあります。


感情表現もそうですね。

喜びがあれば悲しみもあります。

楽しいがあれば辛いもあります。

嬉しいがあれば切ないもあります。


自然を見てもそうですね。

晴れの日があれば雨の日もあります。

暑い日があれば寒い日もあります。

その他にも上と下、右と左、高いと低い、強いと弱いなど、
ある対象を他と比較すると、それとは真逆のものがあります。


僕はある時、人がする判断基準は、意識的にも無意識的にも、
ある対象と比較しながら成り立つものなんだと気づきました。

ある対象を見て、それとは異なるものがないと、
その対象の判断基準を持つことができないのです。

対象と比べて、それとは真逆のものがあるということですね。

対象の基準を知るためには、対象とは異なるものが必要です。

この世界が相対的である意味はそのためだと思っています。

意味なんてなく、ただそうであるという視点もありますね。


実際僕が、そのことを腑に落としたきっかけが、
ただそうであるという視点になったときでした。

簡単に言うと、どちらでもないということです。

対象から判断や価値基準を除いてしまうと、
ただそのような状態としてあるだけですね。

中立でニュートラルな視点もあることに気づけたのです。

この世界の相対性を白か黒かで例えさせていただくと、
それは、白か黒かの判断がグレーになるわけではなく、
白は、黒を基準に白だったと判断できることでもなく、
白は白のまま、黒は黒のまま、ただそうであるのです。

本当は白なのか黒なのかなんて、どちらでもないし、
どちらでもあるし、どちらでも大丈夫だったのです。

そのような視点から現実を捉えることも可能でした。


生きていく中では、起こる出来事も、それに反応する内側も
様々なことが起こりますが、何かしらの判断をすることなく、
自分の内側も外側も、今はただそのような状態なんだと、
中立的な視点に切り替えて捉えていくこともできるのです。

もちろん、中立にはならず、状態にどっぷり浸かりながら、
ポジティブやネガティブ、良いや悪い、正しいや間違いなど、
判断しながら生きていくことも選択していくことができます。


ちなみに僕の場合は、昔は後者の方だったのですが、
前者の視点から物事を捉える視点も養うことができました。

今は正直、そのどちらもあります(笑)

たとえば、生きるのが辛くて苦しい状態だった時期は、
中立的に捉えられることによってとても楽になりました。

こちらは、その状態を客観的に気づいている、
見ている(眺める)ような視点でもあります。

そして、いつも中立的な視点だったらロボットみたいなので、
人間体験を味わうときはその状態に浸ることもできるのです。

それは、起こるままに感じて味わっている状態です。

感じて味わっている状態に気づくという視点もありますね。

本当はどのような状態であろうと、気づき自体はなくなりません。

意識的に気づいているか、無意識であるかの違いとも言えます。

ちなみに、視点を切り替えるというのは、
あり方の変化と言ってもいいと思います。


臨機応変に視点を切り替えられないときもあります。

ですが、どちらの視点もあることに気づけたのは、
僕にとって人生で大きな発見であることは確かです。

どちらの視点も選択することは可能だと思っています。

都合のいいように解釈しているだけかもしれませんが、
自分にとっては、この自由なあり方が心地いいのです。

正しいあり方、間違っているあり方というのに
縛られながら生きていくのはとても窮屈です。

これが唯一の正しいあり方はないと思いますし、
そのような判断基準も人それぞれ異なりますね。


今回は、この現実世界の殆どは相対的であり、
ある対象とは真逆のものがあるということと、
相対的な判断基準以外にも、中立的な視点があり、
そのどちらの視点も選択できるというお話でした。

結局は、どのような視点やあり方を選んでも
大丈夫だと知っていることは支えになっています。

これは僕の体験から言えることでもありますが、
どの視点を選んでも本当の自分は影響を受けません。

今回は、生と死についてお話させていただきます。

テーマの内容がちょっと重く聞こえてしまいそうですが、
生きていることを意識するうえで大切なことだと思います。

このような話をするのはブログでは始めてのことです。

人の死という情報に触れたくない場合は、
この記事はスルーしていただけたらと思います。


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・・・・


では、話を続けさせていただきます。

意識をしようとしなかろうと、僕達は今を生きているのですが、
僕がなぜ、そのことをあえて意識しているのかと言いますと、
過去に体験してきたことも大きいのではないかと思います。

その体験は何かと言いますと、死にそうになった体験です。

生きるとは、まったく正反対のことですね。

「生」に対して、「死」です。


僕は、肉体的な死を意識せざるを得ない体験以上に、
生きていることの実感が強まったことはありません。

僕は過去に、死にそうになった体験をしています。

もちろん死ぬつもりだったわけではありません。

そして、人の死体を発見したこともあります。

これも発見しようとしたわけではありません。

自分の死と向き合い、人の死を目の当たりにしたのです。

それも一度や二度ではなく、何度も。。


最初に、自分が死にそうになった体験を
2つほどご紹介させていただきます。

どちらも路上での事故でした。

一つ目は、僕がバイクに乗って起こった事故です。

もう一つ目は、僕が車に乗って起こった事故です。

事故の細かいことは省略させていただきますが、
どちらも正面衝突で、バイクの時は車と激突、
車の時は高速道路で支柱に激突してしまい、
バイクも車も修理では治せないほど大破しました。

でも幸い、どちらの事故も軽症で済んだのです。

一歩間違えば死んでもおかしくないような事故でした。

車の事故後、処理に来てくれた警察官の人に、
「よくこれで生きてたね~」と言われました(笑)

それだけ車体は無残になってしまったのです^^;

運が味方してくれたのだと思います。


事故の後落ち着いてから、生きていることを強く感じました。

無事を確認して、あぁ良かったとホッと一安心しながら、
生きていられる喜びに浸っていたのを覚えています。

自分自身が存在する感謝の想いも込み上げてきました。

それと同時に、死ぬことが良いも悪いも身近に感じられたのです。

身近に感じるというのは、肉体を持って生きている限り、
どこかのタイミングで自然に訪れるものだと言うことですね。

あの時の死にそうな事故の体験があって以来、
生と死を考える貴重なきっかけになりました。

死と向き合ったことで、生をより強く感じられたのです。


そして、人の死体を発見したことは5回ほどあります。

それを聞いて驚いたりひいてしまった人もいましたので、
この記事の中では詳細を省かせていただきますね。

なかなか死体を発見するような機会はないと思います。

別に怪しいところに行ったわけではありません。

どれも普通の日常を過ごしてきた中で、偶然発見したのです。

自分で勝手に思い込んでいるだけなのですが、
発見する役目を担っていたのかもしれません。

どんな役目だって思いますが(笑)


僕は子供の頃、死ぬことを恐れていました。

「死」という言葉を聞いただけで怖かったのです。

考えたくもありませんでした。

通常は死に対して、自我は強烈に反発すると思います。

自分が死にそうになった事故の体験や、
人の死体を発見した時も怖かったです。

死に対する恐れは、生命維持の働きとして、
人や動物に備わっているものだと思います。


でも今は、死んでしまうことも自然の流れだと受け入れています。

肉体的な死がやってくることを身近に感じてから、
体を持って生きている間にしか体験できないことを、
思う存分味わっていこうという気持ちにもなれました。

死んでしまったら、現在の体と心を持った自分は終了です。

次の転生までは魂だけか、もしくは、
意識体だけになっちゃうのだと思います。

転生するのかどうかも分かりません。

転生しても次は人間じゃないかもしれません。

人としての身体と心を持って生きられるのは、
何かの大変化や科学的な発明などがない限り、
現実的には制限があるということですね。

この時空という次元では、現在のところ時間制限があるのです。


ちなみに、本当の自分は、身体と心を超えていますので、
その視点では、死というものはないとも言われています。

身体と心の終わりはあっても、存在としては永遠のようです。

存在とは、身体と心と魂、そして意識も含まれますね。

僕はこの身体を持って生きている限りは永遠を知りません。

そう言われているのを何かで学び、意識的な体感としては、
もしかしたらそうなのかもしれないという理解くらいです。

今という永遠を体感している人がいるのも知っています。

今そのものは、時間に影響を受けているようにも思えません。

今という中で、世界は毎瞬変化しているのですが、
今そのものは、いつも変わず今のままですからね。

しかし、身体と心を持って生きている自分が、
いつ死んでしまうのかは誰にも分かりません。

それは神のみぞ知ることですね。
(神も知らないかもしれません)

だから僕は、今を生きていることに感謝しながら、
身体と心を持って体験できる命を味わい尽くします。


今回は生だけではなく、死も含まれたテーマでしたので、
少々重く捉えてしまう方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、僕は生を意識している以上、死とも向き合っています。

生と死は、光と闇、陰と陽、愛と恐れと同じように、
この現実世界における相対的なもののひとつですね。

僕はどちらの側面もこの現実世界にあるんだと、
目を背けずに受け入れていきたいと思っています。


P.S.

事故のことや死体を発見したことについて、
もし詳しく知りたいという方がいらっしゃいましたら、
メッセージの方からお知らせいただけたらと思います。

そんなこと知りたくないと思いますが(笑)