田野畑村・普代村へ寄付金をお届けしてきました! | 『5時からアイドル』まきりん社長ブログ

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朝は「仕出し屋まきりん」からスタートし、昼は「株式会社のびあという企画とPR会社の社長」、夕方は「5時からアイドルまきりん」となる人のブログです。
もと金髪長女とW王子こと双子男子の母で岩手県滝沢市在住。
カラオケの十八番は「あゝ無情」

昨日は、チャリティイベント「5/3は盛岡大通へ行こう」の寄付金を
お届けに、田野畑村・普代村へ行ってきました。

<なお今回、お渡しした寄付金は下記の通りです>
田野畑小学校へ60,000円
田野畑中学校へ60,000円
田野畑村スポーツ少年団へ40,000円(4団体へ各1万ずつ)
普代小学校へ60,000円
普代中学校へ60,000円
普代スポーツ少年団(教育委員会)へ30,000円(3団体へ各1万ずつ)
の2市町村6団体へ 合計 310,000円です。
※うち 150,000円は、浜松市の「tetote」実行委員会からの寄付金です。

 


まず田野畑村へ
教育委員会の方に準備していただき、
8回目にして初、「贈呈式」なるものを用意していただきました。
教育長、村の広報もスタンバイという
(見方によってはダンスでもしそうですが、整列しているのです)
 

 

 

 


会場は、アズビィホールという場所で
震災直後は避難所となった場所だそうです。
決して広いとはいえない校庭にも仮設住宅が建っていたのだと聞きました。


 

田野畑村ではちょうど震災が起きる1年前に
6つあった小学校を1つに統合し
高台にある町役場の隣に移転したそうです。


「旧6つあった小学校のうち、2つは確実に

流されていた。

統合が1年後だったら・・と思うと・・・」

 


現在、震災後に生まれた子供たちが小学1年生

震災の実体験をもたない子どもたちが増えているため
小学校5年生のときに「語り部学習」をいれ
いかに伝えていくか
を大事にしているそうです。

 


こちら贈呈式後の記念写真

 

 

また、「田野畑村では実は泳ぐとこがないんだよ」という

話を聞き、
贈呈式のあと、島越や羅賀へ行ってみました。
(小中ともプールがなく、岩泉や普代の海洋センターへ行っているそうです)

 

 

旧島越駅のあった場所は「ふれあい公園」となっていました

駅の前は海水浴場だったんですよね。







おそらく同じ場所と思われる海は
水門工事の最中で、
完成したら、海は見えなくなるのでしょう。

 

 


島越から羅賀へ移動。
その道中も、防潮堤工事だらけです。

 



羅賀の集落です。
羅賀荘にも3階まで水がきたそうで
まわりの道路は、かさあげされ
昔の羅賀集落とは印象が違っていました。

 

 

こちらは、明戸海岸にある震災遺構
津波によって決壊した防潮堤が残されています。
まわりはコンクリートで整備された公園になっています。

 

 

とにかく、浜がなくなった・・という印象です。
 


観光を考えれば海の景色は残したい
命を最優先を考えれば高い防潮堤を作るしかない。

「羅賀荘からと机浜番屋群からしか海は見えなくなるんでないかな」という
先ほどの贈呈式で聞いた言葉が響く光景でした。
 

 

 

そして、普代村へ
震災で被災した岩手の12市町村のうち、ここ普代村は
死者ゼロだった村です。


その「普代の奇跡」を作ったのが、この普代水門
高さ15.5M 幅205M
1984年に完成し、費用は35億。
(正直いって、「思ったより小さい」印象でしたが
この水門が命を守ったのです)


震災発生時、遠隔操作が停電できかなくなり
久慈消防署普代分署の3人の消防士が手動で水門をしめたそうです。
 



しかし、この水門と中と外では、天と地
こちらは当時の広報に掲載されている太田名部漁港の様子




そして、この水門から、わずか100m

の距離に普代小学校があります。
水門との距離が、あまりにも近く、驚きました。





 

小学校の校庭が狭いな・・・と思ったら、

震災後、水門に守られたとはいえ、道路に水はきたそうで
校庭を7Mかさあげしたそうです。

 


こちらは 小中一貫教育校だそうで、隣がすぐに中学校です。

おとなりの普代中学校へ

 

普代中学校の角掛校長は、

震災当時は大船渡の末崎中学校に勤務し
「3日間帰れなかった」そうです。

当時の大変な状況をお聞きすることができました。

 

そして
「今の中学1年生は幼稚園の年長、中2が小学校1年生、中3が小学校2年生。
水門に守られたおかげで、当時の記憶といえば、生活が不便だったという記憶しかない。
いかに、語りついでいくかがやはり今後の課題」


 



 


またここで、私たちは、大変貴重な経験をすることができました。


普代小、中の現在の避難場所は三陸自動車道路とのことで
4月に
小学生105名、中学生56名全員で
自動車道路へあがる避難訓練をしているそうです。


ということで、校長先生のご厚意で、案内していただきました。

校庭を抜けて裏山へ
なお、中学生は教室のある2階、3階から裏山にあがる通路があるそうです。
 



笑顔で先導してくださる角掛校長
 

 

 


非常時はここを破って避難します。



今は、鍵をあけていただいて中へ


階段が108段
(煩悩の数と同じ。。。たまたまだと思います。)



階段を上がると、高速道路の真横に広い空き地が確保されています。
ここが、非常時の第一避難所だそうです。
参考までに、津波注意報発令でここまで避難することになっているそうです。

 

「150人入ったら満杯になっちゃいますね」
 



「4月に入ったら、まずやる行事がこの避難訓練です。
小学1年生から中学3年生まで全員で。
今年は全員が約7分でここまで避難することができました」


「小学校1年生には、つらい距離ではないですか?」とお聞きすると
「中学生がきちんと世話をしますから」
とのこと。

やはり日頃の訓練があってこそなんだと思いました。

 

そして、何度も繰り返した言葉は

「まずは、命が大事ですから」


大船渡で実際に被災している角掛校長の話は
ひとことひとこと重みがあり、
風化させないっていうのは、やはり実体験のある人の話を
聞くことなんだなと思いました。



その後、普代のスポ少を管轄する普代村教育委員会へ


ここでは、
「普代ではたしかに死者がなかったといわれているけれど
実際には野田村で7名の方が亡くなっています」
というお話や
「昔の大津波の教えで、水門より海側に家はなかった。
けれど、生活の糧である漁港施設は全壊しました」
と、当時の広報を見ながらお話を聞きました。




 

三陸特有のやませに歓迎されながら行ってきた田野畑村と普代村。


「実体験のない世代へどう伝えていくのか?」
という同じ課題を聞き
「復興教育」が次の段階に入ったのだとひしひしと感じて帰ってきました。


また、これまで人的被害のなかった普代村の情報は
同じ岩手県人でもあまり入ってきていませんでしたが
今回、貴重な話と体験をすることができました。


あらためて、御礼申し上げます。



そして、いわて負けるもんかプロジェクトは
おかげさまで、
9市町の32団体へ1,782,000円の寄付をすることができました。

出店者の方、協賛店、団体様にはまた別途、報告書お送りします。


これまでの活動はこちらです
https://www.jyosi100.com/novia/activities/

 

 

 

 

 

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