それでも就職した当初は、従業員は皆優しく丁寧で、私はごく普通に教育された。厳しくも柔らかな口調で、悪い点や改善すべき点をきっちりと指摘し、良い点は褒めてくれた。決して私の人格やこれまでの人生を否定するようなことは言われなかった。それはとても有難く、嬉しいことだった。自分は社会人として本当にやっていけるのかと不安を感じていたが、大変だがここでならなんとかやっていけそうだと安心した。従業員たちは皆いつも笑顔で愛想が良く、善人に見えた。渡る世間に鬼はないのだと、馬鹿みたいに純粋に信じ切っていた。だが、最初の一か月程度で善人たちの皮が剥がれ、真っ黒に爛れた鬼たちが顔を覗かせ始めた。
私が入ったばかりの頃、牧野さんという三十歳過ぎの女性の派遣社員が販売スタッフにいた。ふくよかな体系で、おっとりとした雰囲気の女性だった。私が入社する半年ほど前まで別の会社で正社員として働いていたそうだが、リストラにより職を失い、派遣としてこの職場に来たのだという。彼女はおとなしく物静かな人物だったが、私は初めて会ったときから彼女の挙動に不自然さを感じていた。おとなしいが、いつもそわそわとして落ち着かないのだ。誰かに名前を呼ばれると大袈裟に飛び上がり、手に持っているものを取り落す。煮物を詰めたカップを落として床が汁まみれになったことも度々あり、そんな彼女の落ち着きのなさが不思議でならなかった。
牧野さんは嫌われていた。スタッフたちは彼女を無視し、陰口をたたき、そのくせ彼女が失敗を犯すと金属音のような声で責め立てた。彼女に接するとき、従業員たちが纏う空気が明らかに重く、棘のあるものに変わる。何か言われる度に牧野さんは縮み上がり、がたがたと震えだす。そんな牧野さんを見ていると、私自身が責められているかのように苦しくなった。心がチューブで繋がれているかのように、彼女が感じた痛みが私に流れ込んでくる。私まで震え始め、腹を力いっぱい殴られたかのような吐き気が込み上げてくるのだった。
明らかにスタッフたちの牧野さんへの態度が冷酷だ。だが何故嫌われているのか。疑問に思いしばらく彼女を観察してみても、何も分からなかった。特に人格に難があるようには見えず、仕事に対しても真摯に見えた。新人の私の指導もしてくれたが、覚えが悪い私に辛抱強く、嫌な顔一つせず、丁寧に教えてくれる。私はそんな彼女が好きだったし、感謝もしていた。真面目な彼女が嫌われることが不可解で、心苦しかった。だからこそその理由を知ったときは愕然としてしまった。あまりに小さなことだったからだ。
ある日、牧野さんが休憩に出たとき、派遣社員の田辺が私に近寄り、こう言った。
「成瀬さんって社員なのよね?」
「はい」
「社員は覚えることいっぱいあるし、責任が重くて大変だろうけど頑張ってね」
柔らかい笑顔で言う。そんな彼女の言葉が嬉しかったが、同時に重圧でもあり、私は引き攣った笑顔を浮かべた。
「はい。頑張ります。ありがとうございます」
「うんうん。お給料高いんだから、真面目に一生懸命働くのよ。誰よりも仕事しなきゃね」
「……は、はい」
正直、気持ちのいい言葉ではなかった。仕事に慣れるのが遅い私を責めているのだろうか。申し訳なさが波紋のように広がっていき、笑顔が萎んでいくのが自分でも分かった。田辺は私に丸々とした顔を近付けると、目を大きく見開いて囁いた。
「給料高いくせに皆と同じ仕事量だったら嫌われちゃうから、注意してね。牧野さんみたいに」
急に田辺の顔の付近の光が薄くなったように思えた。
「……え?」
「牧野さんの派遣会社、時給が私たちより高いのよ。千三百円ですって。入ってきたときに言ってたわ。他の皆はだいたい千円くらいなのに。それなのに皆と同じ仕事量っておかしいでしょ?」
「えっと、まあ、そうですね」
田辺の言葉は怪腕で押さえつけるような、有無を言わさぬ重みがあり、不本意ながら同意してしまった。じっとりと生温かいものが漂い、思わず身を反らせてしまう。田辺の瞳には、牧野さんへの煮え滾る嫌悪や嫉妬で踊り狂う炎が宿っていた。彼女が嫌われる理由はこれか。こんな小さな理由で、あれほど大きな嫌悪を浴びせられているのか。時給の違いなど、派遣会社が違うのなら仕方のないことだろう。
「頑張ってね」
驚愕して固まる私を残し、田辺は静かにその場を離れていった。私はしばらく、冷や汗を流しながら突っ立っていた。ここは危険な場所なのかもしれないと、愚かすぎる頭はそのとき思った。
最初は信じられなかったが、それ以外に彼女が嫌われる原因が見当たらなかった。その後、牧野さんにぶつけられる悪意は凄まじいスピードで成長して彼女を蝕んでいった。ふくよかな身体はみるみる痩せ細り、頬はげっそりとこけ落ちた。顔が青白くなり、いつも疲れていて体調が悪そうだった。それでも鬼たちは抵抗できない彼女をいたぶり続けた。その光景は死にかけた動物に噛り付くハイエナの群れのようで、私にはどこまでも陰惨に見えた。鬼たちは弱り果てた牧野さんの肉に舌鼓を打つが、彼女を貪ったところで何の養分にもならないではないか。何故こんな無駄な暴力を振るうのだろうか。
牧野さんは休みがちになり、退職した。スタッフたちの内面に隠れ住む鬼の顔を垣間見たことがショックだった。自分が実は鬼に取り囲まれていたという事実は真冬の川の水よりも冷たいものだった。
牧野さんがいなくなり、鬼たちは新たなターゲットを欲した。暴言を吐く客がやたらと多く、煩わしいことが多い職場では、誰かを攻撃し続けなければ平静を保てないのかもしれない。
選ばれたのは私だった。覚えが悪く、要領も悪い。そしてミスを頻発する。一言で言うと仕事ができない。そんな私は、牧野さんが消えたことで不機嫌に燻っていた悪意の火種を、たちまち大きな炎へと成長させてしまった。ミスを頻発することで周囲の苛立ちを煽ってしまい、指導はどす黒いものが混じるようになった。そして、それが深い黒に染まりきるまで時間はかからなかった。私には人格や容姿などを否定することを言うのも許されるという認識が、いつの間にか従業員たちの心に芽生えていた。集団意識によるものだろうか、そういった認識は一旦芽生えると成長は異様に早いものだ。すぐにミスとはまるで無関係のことまで突かれ、否定され始めた。
「成瀬さん。さっき青いシャツ着たお客さんがずっと待ってたの、気付かなかった?」
ある日の閉店作業中、派遣社員の沼田が静かだが強い口調で私に言った。彼女は五十代の主婦で、ここでは一番の古株だ。新人の私以外社員がいない売り場では彼女に意見できる者はおらず、売り場全体を取り仕切っている(先述したが、店長・副店長は厨房で調理のみを担当しており、売り場にはまず出ようとしない)。癇癪持ちで言葉も汚く、皆から怖れられている。そのため、売り場は彼女の王国と化していた。
「すみません。気付いていませんでした」
「やっぱり」
沼田は大袈裟に溜息を吐くと、呆れた目で私を見上げた。身長は私より十センチ以上低いのに、彼女の威圧感で後ろに倒れそうになる。
「前から言ってんだろ。お客さんには常に目を配っとけって。あんたのせいでクレームになったらどうすんだよ。実際、ずっと待ってたのに気付いてもらえなかったってクレームが来ることあるんだよ」
突然声が数段低く、ドスの利いたものに変わり、私は竦んでしまった。
「……すみません」
「いっつも同じこと言ってるけどさあ、何で進歩しないの? やる気あんの?」
この「やる気あんの?」という言葉はいつ聞いても苦しい。やる気はあっても結果が伴わなければやる気がないのと同じことになってしまう。
沼田が言うには、先ほど、青いシャツを着た客が注文の順番をレジの前に立ってずっと待っていたが、私は気付かずに後から来た別の客に「ご注文はお決まりですか」と声をかけてしまい、青いシャツの客は怒った顔で帰って行ってしまったそうだ。夕方の客入りの多さに慌て、うっかり見逃していた。ああ、またやってしまったのか。
「あのお客さん、常連さんなのに、あんたのせいでもう来てくれなくなったらどうすんだよ。そういうところから売り上げ減っていくんだよ。ちょっとは気配りできるようになれ」
「はい。すみません」
「私そんなに難しいこと言ってる? 言ってないよね? 何でできないの? もう何回も同じこと言ってるよ? 全体見ろって何回言った?」
言葉が何一つ出てこない。視線が床に落ちた。沼田が溜息混じりに、更に苛立ちを吐き出す。
「何回同じこと言わせれば気が済むのかなあ。あんた、彼氏いないだろ」
「え?」
突然の話題の転換に面食らい、沼田の顔を見詰めた。
「えっと、いませんけど……」
「やっぱりね。こんなに気配りできなくて、学習しない女を好きになる男なんかいるわけがない。今までずっと恋人できたことないんだろ? ただでさえブスなんだから、そういうところから改善していかないと。あんたそんなんじゃ適齢期過ぎても売れ残るよ? ただでさえブスなんだからさ」
何故か勝ち誇ったような顔で言う沼田。その場で動けなくなる私。何故そこまで言われなくてはならない? 仕事ができないことは完全に私が悪いが、プライベートな領域にまで踏み込んで否定するとはどういうことだ。確かに私の容姿は平凡そのもので、異性から積極的に求められるような人間ではないが、そんなこと仕事とはまったく関係がない。納得がいかず、沼田の目をじっと見据えた。いつの間にか握り固めた拳が震えていた。口を開きかけたとき、
「何その顔? 何か文句あんの?」
凄味のある低い声で、唸るように沼田が言った。
「……いえ、何でもありません。すみません」
迫力に押され、喉元まで出かかった言葉が止まる。怒りは一瞬で溶けて消えた。固めていた拳から力が抜け、指が情けなくほどけた。更に彼女が早口で畳みかける。
「あたしはお前のためにわざわざ注意してやってんのに、何なのその態度? お前が悪いんだろ?」
「はい、すみません……」
周りを見渡せば、他の従業員まで私を睨み、研ぎ澄まされた敵意を私に突き付けていた。四面楚歌とはこのことだ。反発しようと出かかった言葉は腹の中へ落ち、臓器に吸い込まれて消えていった。沼田は派手に舌打ちすると、「もういいよ」と言って離れていった。「最近のガキは礼儀も知らなくて」「ほんと腹立つ」などと不機嫌にぶつぶつ言い、周囲がそれに大袈裟に同調しているのが聞こえた。指はだらりと項垂れるように伸びていた。
従業員からも客からも、厳しく接してもらえることはとても有難い。謝罪すると同時に、感謝して受け止めることができる。だが、暴言を吐かれたり、容姿や人格を否定されたりといった「攻撃」は、受け止めるのが苦しい。こんなことは日常茶飯事だが、何を言われても私は反発できない。少し怒りを見せられると、反発心は腹の中へと押し戻されてしまう。しかし、怒りが消えてなくなったわけではない。そんなとき、仕方なく私は怒りの刃を自分の柔肌へと向ける。外へ向けられないのであれば、こうするしかない。悪いのは私だ。私がもっと仕事ができれば、こんなことにはならないのだから。