先頭の自殺者を連れて歩いていた化け物が後ろを振り返り、私たちと向かい合った。
「ここから先が労働場だ。お前らにはこれからある仕事をしてもらう」
労働場? 仕事? それを聞いて私はほんの僅かだが安心し、ふっと息を吐いた。どうやら、拷問されるようなことはなさそうだ。
「仕事と聞いて安心したか? 愚かな奴だ。せいぜい、今のうちに安堵しておけ」
私の表情を読み取り、隣にいた化け物が静かに、しかし確かな強さをもって囁いた。私は顔を伏せ、唇を噛み締めた。意地の悪い怪物だ。先頭にいる化け物が説明を続けた。
「お前らは生きていた頃、労働に従事した経験があるだろう。各々、労働に対し様々な想いがあったことだろう。ここには過酷だと感じてきた奴が多いようだな。だが、ここでの労働は、あっちでの労働なんかとは比べ物にならないほど苦しく、痛みが伴うものだ。楽しみにしておけ」
そう言い放つと、先頭の化け物は蹴破らんばかりの勢いで扉を押し開けた。
扉の先は、円形の広場だった。一辺四十センチほどのブロックが積み上がって山を成しており、その山が幾つも広場に立っていた。それぞれのブロックの山から十メートルほど離れた地面に、直径十メートルほどの円が描かれている。
「さて、早速始めるか」
横にいた怪物がさらに近づき、私の首に手を伸ばした。とっさに腕を身体の前に構えたが、蠅でも振り払うように易々と弾かれてしまった。化け物の手が首の鎖の枷を掴み、一気に毟り取った。首が千切れると思い、反射的に目を瞑ったが、驚いたことに、私の首には痛みはおろか衝撃の一つも伝わってこなかった。枷だけ溶けてしまったように思えた。唖然としていると、突然腹に衝撃と鈍痛を感じ、私は後ろに吹っ飛んだ。化け物が足を上げ、笑いながら私を見下していた。蹴られたのだと理解するのに少し時間を要した。
「ここがお前の持ち場だ」
後ろを見るとブロックの山が私を脅すように聳え立っていた。まっすぐなはずなのにこちらに傾いて見えた。
「ここのブロックをあの円の中まで移動させろ。全部だ」
こんなにも大きく重そうなものを運ぶのか。非力な私にそんなことができるのか。見れば見るほどブロックは重く、床に強い意志でへばり付いているように見えた。
「何ぼけっとしてるんだ! とっとと始めろ!」
臓器を抉り取られそうなほど重い声が響き、私は反射的に立ち上がった。死んでいるはずなのに、胃が縮み上がり、心臓が暴れ狂うように鼓動するのがはっきりと感じられた。慌てて山へ駆け寄り、手近な一つに手を掛け、腕に力を込めた。が、ブロックはぴくりとも動かず、セメントか何かで接着してあるかのように頑固にその場に居座っていた。
「そのブロックは頭が良くてな。お前の出せる力を把握し、持ち上げられる限界ぎりぎりの重さになる。僅かでも力を抜くと持ち上がらなくなるぞ。持ち上げることだけに全神経を集中しろ」
化け物が口を横に細長く広げて笑った。
「言い忘れたが、俺たちはこの監獄の看守だ。お前ら囚人がちゃんと仕事しているか監督し、必要であれば罰する義務がある。もっとも、義務感なんざ何も感じていないがな」
そう言うと化け物は腰に手を回し、括り付けられていた鞭を取った(ここに来るまでは鞭など持っていなかったのに、いつの間にか腰に付いていた)。「罰」の意味が分かり、ぞっとした。
「こいつでな、囚人どもを叩くのが俺たちの何よりの娯楽なんだ。傷だらけの囚人どもが痛みに耐えかね泣き喚く姿は垂涎ものよ」
残酷に笑い、床を鞭で激しく打った。
「まだ一つも運んでないぞ! ぼけっとするな!」
見ると鞭で叩かれた床に裂け目が入っていた。弾けるように身体が動いた。ブロックに両手を添え、先ほどよりも強く力を込めた。しかし相変わらず図々しく座り込んだままだった。その場に留まろうとするブロックのどす黒く歪んだ意志がひしひしと感じられた。
「まだだ。もっと力を入れろ」
甲高く、赤い声が手元から聞こえた。びくっとして手元を見ると、ブロックに気味の悪い人面が浮かび上がっていた。口が裂けたように大きいのに、唇は不釣り合いに薄い。興奮しているのか、異様に尖った高い鼻をしきりにひくつかせている。蛇のように切れ長の目からは、嘲笑の光が溢れていた。
「体力の心配なんざしてる限り、一生持ち上がらねえぞ。あ、もう死んでるんだっけか。一生ってのは間違いだな」
金属が擦れ合うような耳障りな声でブロックが笑う。醜い。なんという醜さだ。嫌悪が大蛇のように頭を擡げ、私の中をのたうち回った。私はグロテスクなブロックから思わず手を離し、睨み付けた。
「お? 何だ?」
「この――」
私はブロックを殴打しようと拳を振り上げた。
「おい、言っとくが手を止めたら――」
ブロックが言い終える前に、背後で何かが風を切る短い音が聞こえ、直後、牢獄中を揺るがすのではと思うほどの凄まじい轟音と、真っ赤に焼けた鉄の棒を押し付けられたような激痛が背中に貼り付き、私の身体を激しく揺さぶった。私は吹き飛ばされ、ブロックの山に倒れ込み、咳き込んだ。すべての臓器が痛みの波動により打ち震えた。電流を流されたように身体が小刻みに震え、麻酔をかけられたかのように、思うように動けない。身体が激しい痛みに捩れ、そのまま固まってしまった。目が見開かれ、瞼を閉じられない。痙攣しながらやっとの思いで後ろを振り返ると、看守が鞭を構えて立っていた。
「――鞭が飛んで来るぜ。て、もう遅かったか」
ブロックが笑う。呼吸さえままならない。高温の痛みに喉が締め付けられる。この痛みが現実世界で受ける鞭打ちの痛みと比べ、どれほどのものなのかは分からないが、私が過去に味わったどの痛みよりも大きく、深く身体の中へ食い込む痛みだった。
「早く仕事に戻れ。もう一発食らいたいか?」
看守の声が無慈悲に響き、できたばかりの傷を舐めた。身体の震えが止まらず、汗が大量に吹き出ていた。私はふらつきながら、先ほど掴んでいたブロックに再び手を掛けた。
「すまんな。警告が遅れちまって」
ブロックに浮かび上がったおぞましい顔が嬉しそうに笑い、くしゃくしゃに歪んだ。歪んだ顔が一層不気味だった。人面ブロックへの嫌悪感は、鞭打ちと看守への恐怖ですっかり姿が見えなくなってしまった。私は歯を食い縛り全身に力を込めた。背中の傷がみしみしと痛んだが、恐ろしさの方が勝り痛みに耐えて力を込め続けた。ようやくブロックが僅かに持ち上がり、私はそれを抱え、ふらつきながら歩き始めた。足取りは重く、僅か十メートル程度の距離が信じられないほど長く感じられた。まるで、気付かぬうちに自分の身体が縮小し小人になってしまったかのように思われた。悪意に満ちた重みと戦っていると、何故自分がこんな境遇に立たされているのかという思いが、汗と共に私を形作る細胞ひとつひとつから吹き出てきた。
腕が軋み、掌に激しい痛みを感じ始めた頃、ようやくブロックを一つ、山から円へと運び終えた。たった一つで息がかなり乱れていた。
「ようやく一つ目か」
呆れたように看守が言う。限界の重さのものを運ばされているのに、ようやく一つ目かとは何という言い草だ。しかし、口にする勇気は無論ない。たった一発の鞭が、私の反抗心を易々と粉砕してしまった。幾分和らいだものの、燃えるような痛みは依然として背中にしがみついている。まるで母の背にすがる無邪気な赤子のようだ。
私は二つ目に手を掛けた。するとまた人面が現れ、ぎらぎらと光る目で私を睨み付けた。口が三日月のように大きく横に開き、真っ赤な舌をちょろちょろと出した。
「頑張って運ぶんだぜ、お嬢ちゃん」
ブロックひとつひとつに固有の人格があるのかは分からないが、こいつも先ほどの奴同様、薄気味悪く言葉や表情が逐一私の感情を逆撫でした。気分が悪い。できる限り端を持ち、忌々しい顔に手が触れないようにして運んだ。
その後、四個ブロックを運んだ。身体が溶けだしたのかと思うほど大量の汗が流れ、地面に染みを作った。早くも掌に肉刺ができ、腕は軋み、腰は鉛を詰め込まれたかのように重く、鈍く痛んだ。生きていた頃から体力があるほうではなかったが、それでもまさかここまで自分が動けないとは思わなかった。一向に小さくなる気配のないブロックの山から、子供のように無邪気で、それでいて分別のない大人のように冷たい笑いが響き渡った。ここには私の味方になってくれるものは何もないのだと、そのとき悟った。もう、誰も助けてくれない。自分は誰も手を差し伸べてくれない地獄に来てしまったのだ。孤独感と絶望感からか、自然と涙が溢れ出していた。運びながら泣いた。信じられない量の涙が頬を伝い、床に虚しく落下した。しかし、それは生きていた頃に流した涙とは違い、ぞっとするほど冷たかった。感情が極限に達した際の人間らしい熱さがその涙には微塵もなかった。涙は私の心を洗ってはくれず、泣いた分だけ余計に惨めになった。
その後も、私は何度も鞭と嘲笑の雨を浴び、涙と血と汗を垂れ流しながらブロックを運び続けた。どのくらい時間が経過しただろう。身体が激痛の絶叫を上げ、泣きすぎて顔がひりひりと痛んだ。口の中が渇き、唾液が粘つく。舌が口内の肉に貼り付いてしまいそうだ。それほど水分は失われているのに、身体には何の異常もきたさない。生きていれば脱水症状で死んでしまっていても不思議ではないと思えるほどの汗の量なのに、何も起こらない。肉体はエネルギーを放出し続け、電流が流れるように痛みを発し続けているのに、手足が活動を停止しない。あり得ないことが起こっている。しかし、ここではそれが現実なのだと受け止めるしかない。実際に起こっているのだから。そんな状況に身を置いていると、心の中に暗雲が音もなく忍び寄り、気付けば光を完全に遮っていた。
ふと足元を見ると、自分の血と汗が床に広がり、黒々とした染みを作っていた。その染みが、自分の身体から出たものと分かるのに時間を要した。血と汗は点滴のように身体から絶えず滴り落ちている。
鬱々としながらその後もブロックを運び続けた。運んでいる間、何度も看守の鞭が飛来し、私の身体に地獄の痛みを刻み付けた。私は涙を流し、血を流し、痛みに悶えた。痛みは肌に刻み付けられ、和らがないうちに、また刻まれた。それを気の遠くなるほど繰り返した頃、私はようやく、最後のブロックを指定の場所に運び終えた。身体中の肉に裂け目ができており、動く度に痛んだ。何発もの鞭で背中が爛れているのが見なくても分かった。ようやく運び終えた。ほっとしたとき、円の中に山になったブロックが蝿の大群が立てる羽音のようにやかましく騒ぎ立てはじめた。
「やっと終わったか。お疲れさん」
「何発鞭喰らった? 誰か数えてたか?」
「そんなもん数えられねえよ。こいつ喰らいすぎ」
「とろくせえ奴。今までで一番だな」
一瞬にして、僅かに芽生えていた達成感が摘み取られた。
そして、次の瞬間、ブロックが溶けるように消え去り、綺麗に元の場所に戻った。運ぶ前とまったく変わらない山が、そこに立っていた。