「え……」
何故元に戻っているのだ。幻覚を見ているのか。痺れるような疲労に覆われた手で、目を擦る。馬鹿みたいに、一度目を閉じ、また開けて見る。目の前には、やはり運ばれる前のブロックの山。
「よし。もう一度運べ」
背後で看守が悦楽に震えながら囁いた。狂人のように興奮しているのが見なくても分かる。また同じことをするのか。あんなに苦労して運んだのに。鞭で打たれながら、身体に纏わり付く痛みに耐えながら運んだのに。膝が折れ、地面に力なく打ち付けられた。力が入らない。背後から風を切る音がした。しまったと思ったときにはもう遅かった。背中が燃えた。痛みと言えないほど大きな衝撃が背中を捕え、私は吹き飛ばされ、倒れた。
「さっさと取り掛かれ」
やはりこうなるのか。どこかで分かっていたはずだった。絶望が大きすぎて見えなくなっていた。水の入った瓶に墨が混ざり水を黒く染めていくように、恐怖が私を再び支配する。人間の感情とはこうも移ろいやすいものだったのか。もう殆ど残っていないはずの体力を振り絞り、私はブロックの山に向かった。運ぶ前とまったく同じ位置にある一つに手を掛ける。
「頑張れ、頑張れ」
ブロックに浮かぶ顔が、甲高い笑い声を上げる。これも、運ぶ前と同じ。同じことを無意味に繰り返していることへの虚しさ。違うことと言えば、度重なる鞭打ちとブロック運びにより、全身の痛みや疲れが増していること。泣き叫びたかった。実際、涙は何度も流した。しかし、涙は冷たく、解放感や浄化は何も感じられない。流せば流すほど虚しくなるだけだった。こんな無駄な機能を残していることが憎く、誰とも知れない創造主を私は呪った。
消えたいと思った。暗い心にその思いが一筋、ぽつりと浮かんだ。と、その瞬間、黒々と濁った幾筋もの感情が、土石流のように流れ出した。意味のないことを何故しているのか。これほどまで完璧に作られた理不尽が他にあろうか。意味のないことをただやり続けなければならない理由は何だ。どうしてこんなことになった。私が私としてここに存在する理由は何だ。私の肉体とは、存在とは、魂とは、一体何のためにあるのだ。誰からも感謝されず、見返りも得られず、当然充足も得られず、ただ疲労と痛みが心身に蓄積されていくだけの、この謎の営為は何だ。この営為の果てに、誰が幸福を得られるのだ。
その後、冷たい血と涙と汗を流しながら、絶望と疲労に幾度となく打ちのめされながら、何個もブロックを運んだ。気の遠くなるような時間が経過したとき、女性の金切り声のような笛が鳴り響き、ようやくその日の労働は終わりを告げた。
私たちは再び鎖を嵌められ、すぐ後ろにある、防空壕のような洞穴へと入れられた。洞穴の入り口は高さ二メートルほど、横幅一・五メートルほどの小さなもので、入り口の横には鉄格子の扉が貼り付いていた。それが囚人房だった。広さはせいぜい四、五畳ほどだろうか。部屋の隅には一本松明があり、弱々しい火が灯されている。その火は私自身を象徴しているかのように弱く、頼りない。私を囚人部屋に入れると、看守は部屋の壁に鎖を巨大な金属の杭を素手で打ち付けて固定した。拳がハンマーの役割を果たし、僅か三発で杭が壁に埋まってしまった。恐ろしさで全身が冷たくなるほどの怪力だ。その怪力ぶりを見て、この化け物からは逃げられないし、逆らってはいけないのだという思いに頭が完全に支配された。逃げようなどしたら、杭を打つように私の頭は真上から叩き潰されるだろう。もっとも、ここに逃げ道など用意されているとは思えないのだが。
「一日目終了だ。疲れただろう? ゆっくり眠るといい」
そう言うと看守は、外に出ると鉄格子の扉に手を掛けた。地震のような振動を生み出しながら、鉄格子が閉まった。
「いい寝室だろ? よく眠れるぞ」
看守は私に笑いかけると、黒い扉に向かって歩き出した。大勢の看守たちがそこに集まっており、黒い扉から外へ出て行った。静寂が訪れた。私は屈み、岩の床に手を触れた。冷たく、堅い。こんなところで眠れというのか。腰を下ろし、部屋を見渡した。見事と言っていいほど、何もない。松明の火が揺れているだけで、とてつもなく空虚だった。ああ、私と同じだ。この部屋は私なのだ。何もかも投げ捨てて、すべてを失った私の心なのだ。喜びも目的も、何もない。これから何がここを満たすのだろう。
扉が乱暴に開かれる轟音が鳴った。大勢の足音も響く。看守たちが戻ってきたのだ。私に付いていた看守(もっとも、他の看守と見分けなどつかないのだが)が鉄格子の前に来て、私を楽しそうに見た。手には茶色い布袋が握られている。何をするつもりだ。怖くなり、奥の壁に貼り付いた。
「さすがに何もないと眠れないだろう?」
そう言うと、布袋に手を突っ込む。抜き出した手には、薄桃色の粉が一掴み握られていた。手をゆっくりと開くと、粉がさらさらと零れ落ち、松明の光を受けて明るく照らし出された。散り行く桜の花びらを想起させ、儚くも妖艶な美しさがあった。思わず粉に見惚れていると、看守が掌の粉に息を吹きかけた。粉は宙を舞い、私の全身を包み込んだ。その瞬間、強烈な眠気に襲われ、私は固い岩の床に仰向けに倒れた。倒れた衝撃は感じたが、痛みはなかった。薄れ行く意識の中で、看守が再び黒い扉のへ歩いていく足音が聞こえた。足音を聞いているうちに、私は眠りに吸い込まれていった。眠りに落ちても、安らぎは得られなかった。