八月になり、ぷっつりと通わなくなった大学が私にとっては無意味な夏季休業に入ったある日、電話があった。こんなに騒々しい音だったかと耳を疑うほど呼び出し音がやかましい。死の妄想にどっぷりと浸かる私と現実の世界を繋ぐ唯一の音。鳴り響いた瞬間、全身を覆う妄想の膜が弾け飛び、私は現実の空気に触れた。私に電話をかけてくる人物など一人しか思い浮かばない。怖かった。恐怖が蟻の大群のように足元から這い上がり、私を覆っていく。冷や汗が一気に吹き出す。震える手を伸ばし、受話器を取った。
「もしもし……?」
自分の掠れた声に驚く。もう長いこと会話から離れていたため錆び付いた声。
「もしもし、由美子?」
母の声だ。相変わらずの濁声。
「お母さん?」
「まったく、全然連絡よこさないで。元気にしてるの? 大学はどうなの? ちゃんと勉強してるの? ちゃんとしたご飯食べてるの?」
突然電話してきたと思ったら質問攻めか。尋問でもされているかのような気分だ。母の無意識の言葉は無数の槍となり、私を激しく突いた。
「何で黙ってるの? もう夏休みでしょ? 帰って来ないの?」
「帰るのは……無理かな……」
「どうしてよ?」
「その、バイトがあるから」
咄嗟に嘘を吐いた。少しでもまともに暮らしているように見せたかった。
「バイト? あんた辞めたんじゃなかったの? スーパーのやつ」
「また始めたの。別のスーパーで」
「へえ。いつからやってるの」
「えっと、先月から」
嘘を吐くと不自然なほど言葉に力が宿らず、たどたどしく響く。何故か冷や汗が止まらず、心臓がどくどくと落ち着かない音を立てていた。
「ふうん。今度はちゃんと続けるんでしょうね? 前のバイトたった三ヶ月で辞めたって聞いたときはびっくりしちゃったわよ。あまりに根性がなさすぎるわ」
ぐさりと私を抉る言葉。これは親に嘘を吐いたことへの罰か? 負い目が刺激され、胸が痛い。
「大丈夫だよ」
震える言葉を何とか吐き出した。不安で下腹部が痛み始めた。
「しっかりしなさいよ? アルバイトも満足に続けられないんじゃ、先が思いやられるわ。あんたたいして綺麗でもないし、取り柄もないんだから、結婚もいつできるか分からないんだし。あんたみたいなのは人一倍頑張らないとだめなのよ?」
それが実の娘にかける言葉か。私を否定するのがそんなに楽しいか。部屋がぐにゃりと歪み、涙が頬を滑り落ちた。
「ちょっと、由美子。聞いてるの?」
答えられず鼻をすすった。
「由美子? あんた泣いてるの?」
何も言わず、受話器を落とすように電話を切った。もう母の言葉など聞きたくなかった。また否定された。いつもそうだ。希望を与えてくれるような、温かい言葉はいつだってかけてもらえない。孤独感と無力感がいたずらに刺激され大きくなった。この世界に私の味方はいない。心底そう思った。寝床に戻り、布団を頭から乱暴に被った。布団の中で狂ったように呻き、泣いた。私は苦しむために生まれたのか。否定されるために生きているのか。罰せられなくてはならない人間なのか。
布団の隙間から、銀色のものが見えた。布団から這い出し、涙に濡れた目でそれを見詰めた。包丁だった。ぼやけた視界でも何故か鮮明に見え、私を取り囲むものの中で唯一優しい顔をして見えた。引き寄せられるように包丁を掴み、バスルームへと歩いていく。
「もう終わりにしよう」
バスルームの天井の黄色い光はいつもより明るく、悦楽の色を帯びていた。小さな鏡には水垢がこびり付き、床はざらついていた。長い間掃除を怠った結果だ。
バスタブに栓をし、シャワーから勢いよく水を出す。シャワーフックに固定されたシャワーの水は雨の様にバスタブの底を打っていたが、しばらくすると水が底を覆い、水が水を打ち始めた。左手首を右手の親指で触り、慎重に脈打つところを探す。見付けた。指を皮膚越しに押し上げるように脈打っている。その脈打ちは主の決意など知ったことかとでも言いたげに、図々しく単調な仕事に勤しんでいる。愚か者め。ここがお前の終着点だということを教えてやろう。
上から落ちてくる流水を左手首に当て、探し当てた箇所に包丁の切っ先を当てる。暴発しそうなほどに胸が高鳴り、息が細く絞られていく。一度息を深く吸い込むと、歯を食い縛り包丁を持つ手に力を込めた。ぷつりという小さな感触の後、激痛が生まれ、じわりじわりとその存在を大きくしていく。
「うぐ……」
幼い頃刃物で怪我をしたときの記憶が蘇った。想像を遥かに超える痛みだ。溢れ出る血には、生に背くなという非難の色が見えた。だがここで止めてはならない。過去二十年と向こう何十年の苦痛を凝縮すれば、こんな痛みなど限りなく無痛に近いはずだ。今がどれほど痛くてもすぐに永遠の平穏が手に入る。その思いだけで手首に包丁を突き立て続けた。歯がぎちぎちと鳴り、隙間から息が漏れた。包丁が肉に食い込み、赤い血は焦燥を煽るかのように激しく流れていた。
逆手に包丁を持つ右手が笑うように不自然に震え、力を分散させた。次いで駆け上るように上へ上へと激しく押し上げられる息。呼吸をまともにさせまいとすべての臓器が結託しているかのようだ。私に抵抗する気か。主は死を望んでいるというのに、隷属するお前たちは生を望むというのか。邪魔をするな。
「邪魔をするな!」
重荷が床に投げ落とされるように発せられた声には、女らしさは欠片もなかった。獣の唸りのように、生きようともがく肉体の意志を押しのける響きがあり、汚らしく潰れていた。そして、それが放たれた瞬間、右手の震えがぴたりと止まった。鋭い激痛が緩和され、手首がじわりと温かくなった。そして何かが下腹部で膨らみ、弾けた。それは失神しそうなほど高密度に凝縮された快感だった。私が生きる予定だった人生のすべての快感がその一瞬に詰め込まれたかのようだった。それは肉体の芯を貫き、身体中を暴れまわった。食い縛っていた歯と歯が離れ、舌が犬の様にだらりと垂れた。はっはっと息を押し出すように吐き出すと、それに伴い涎が零れ糸を引いた。生命の道理から外れることの背徳感。もう苦しみを感じなくてもいいのだという安堵感。それらが何故かすべての神経を鷲掴みにするような快感を呼び起こし、苦痛と恐怖を覆い尽くした。
くだらない過去や未来を憂慮する必要など何処にもない。役に立てないことも、責任と叱責に震え続け、溝鼠のように萎縮し卑屈に振る舞わねばならないことも、誰にも愛されず孤独に生きねばならないことも、何も怖れなくていい。生きていれば怖れざるを得ないだろうが、私には関係ない。もう死ぬのだから。
「なんだ、簡単なことじゃない」
腕を伝いバスタブに落ちる血を見ながら思わず漏れた言葉。そうだ。時間を「今」に縛り付け凍らせて欲しいと願ったが、願う必要すらないことだった。初めからこうすればよかったのだ。生きるに値しない人生など早々と捨て去ってしまえばよかったのだ。何と容易いことだろうか。こんなことにも気付かなかったとは愚かだ。そう思った途端、狂おしいまでの愉快さが笑いを喉元まで押し上げてきた。
「く、はははははははははは! あははははははははははははは!」
笑いが止まらない。狭いバスルームは愚かな女の笑い声を受けびりびりと鳴った。むず痒い。全身がむず痒いほどの快楽に震えている。ちっぽけな檻の格子を引きちぎるように破壊し、外に飛び出すことなど簡単だった。先ほどまで弱々しく泣いていた自分が馬鹿に思えた。私にしか得られない快楽がここにある。今まで惨めで肯定できない人生を歩み、これからもそんな無価値な自分しか生きられない私だから、その生を投げ捨てられることに無上の悦楽を感じられるのだ。これほどまで愉快だったことがあったか。存在のすべてを震わせて笑ったことがあったか。この瞬間、ほんの一瞬だけ、私は人生の勝利者になった。最後の最後で人生に勝ったのだ。
「あははははははははははははははははははははははははははは!」
大口を開け醜く笑いながら、私は包丁を握る手に更に力を込めた。みしみしと音を立てずぶずぶと華奢な手首に食い込む包丁。刃は動脈を破り、深く潜り込んだ。血は飛び散るように溢れ出ていた。勢いよく噴出する血液に見惚れ、うっとりとしてしまった。眩いほどの鮮紅で、透き通っており美しい。上質なワインのようだ。もっと血が見たくて、手首を縦に切り裂いた。鮮血が更に溢れ出す。綺麗だ。激しく脈打つような快感に悶えながら堪能する最期。苦役を手放すことのできるこの快感はどんなものも及ばないだろう。バスタブの水に血の赤が混じっていく。もっと赤く染めたい。その一心でバスタブの水に手首を浸した。もっと流れ出ろ、私の血よ。私の忌々しい人生と共に流れ出てゆけ。
父と母の顔がぼんやりと浮かぶ。にたりと亡霊のように気色の悪い笑顔が自分の顔に貼り付いたのが分かった。
「お父さん、お母さん、ありがとう。あなたたちのお陰で、今最高に幸せだわ。私の死体を目に焼き付けて、一生トラウマを抱えて生きていってね」
意識が闇に溶けていき、蝋燭の火が吹き消されるように、小さく消えた。こうして私は人生を捨てた。それは一瞬だけ掴んだ、歪んだ幸せだった。
こうして夢で客体視して振り返ってみると、自分の人生が如何にくだらないかが見えすぎるほど見えてしまう。自分の記憶に刃物を何度も突き刺し、ずたずたに切り刻んで残虐に葬り去ってやりたくなる。何とちっぽけなことで深刻に悩み苦しんでいたのだろう。人類の歴史の中で、おそらく幾度となく繰り返されてきたであろう、あまりにもありふれた痛み。それも針の刺し傷程度の小さな小さな痛み。それを本気で苦しいと感じていた私。私よりも遥かに高純度で破壊的な苦痛を押し付けられた人間の数など、名を書き連ねれば紙が地球を何周も回ってしまうほど膨大だろう。なのに、私はこんな小さな馬鹿馬鹿しいことで涙を流し、人生の放棄に至った。私はどこまで弱いのだ。どこまで甘えた生き物なのだ。くだらない。本当にくだらない。羞恥に身が焼き尽くされる思いだ。