次の日出勤すると、気まずい空気が私を待っていた。誤ったことはやはり人に良い感情を芽生えさせないらしい。挨拶をすると、おずおずと申し訳なさそうな、強張った挨拶が返された。店長は鍋を掻き混ぜながらちらりと私を見、「おう」とだけ言った。怒りが燻っているのが分かる。後で聞いた話だが、店長は吉田を提訴すると息巻き、本社に願い出たそうだが、大事にして悪質な盗難があった事実が露見すれば会社の評判を傷付けるからと、本社は店長の訴えを強引に退けたそうだ。
タイムカードをスキャンし、厨房を後にするとき、ひそひそと何か聞こえたが私の心は掻き乱されず、静寂のままだった。売り場に行くと、販売スタッフたちも気まずそうにしていたが、それも取るに足らないことだった。今まで、私は何に怯えていたのだろう。同じ空間にいるのに、彼らが遥か遠くにいるように感じられた。
「成瀬さん、休憩行ってきていいわよ」
沼田がむず痒さを覚えそうなほど不自然に甘い声で私に言った。
「はい。では休憩頂きます」
私を追い出して噂話がしたいのだろう。私は弁当を持って休憩室に向かった。久しぶりの休憩だ。休憩室に入ると、喫煙所のドアの窓ガラスから店長が煙草を吸っているのが見えた。ちょうどいい。今店長に話してしまおう。喫煙所のドアを開けると、店長が私を見た。その目は相変わらず獣性に満ちていたが、脅威は感じなかった。やはり店長も遠くにいるように感じられた。
「どうした?」
「突然ですけど、今年度いっぱいで辞めさせて頂きます」
一瞬驚いた顔をしたが、すぐに無表情になった。
「……そうか、分かった」
それだけ言うと、店長は私に背を向け、また煙草を吸い始めた。色々理由を訊かれるのではと思っていたが、妙にあっさりとしていた。喫煙所を出ようとすると、
「おい」
振り返って店長の顔を直視した。
「何ですか?」
「俺を恨んでないのか?」
無表情だが、浅黒い顔に羞恥と後悔の色が見て取れた。
「恨んでいませんよ。勿論吉田さんも。疑われたのは辛かったですけど、お陰で苦しみの意味が分かりましたから。それじゃ、失礼します」
何か言いたそうな店長を後に残し、私はさっさと喫煙所から出た。無性に空腹だった。
それからは毎日がスムーズに流れていった。退職を決めた途端身体の力が抜けたのか、大きなミスやトラブルがなくなり、陰口もあまり耳に入らなくなった。あんなに怯えて縮こまる必要などなかったのだ。
穏やかに日々が過ぎていく。
退職の一か月前、本社に退職届を出した(何か問い詰められるでもなく、あっさりと受理された)。その二十日後に勤務最終日を迎え、その後十日間の有給休暇を消化して正式に退職となった。
勤務最終日の朝、家庭内の空気は今までにないほど穏やかだった。
「葵、ようやく自由になれるわね。本当にお疲れ様」
玄関から家を出ようとする私に、母が優しく言った。
「ありがとう」
「次はあなたが本当に望むことをしなさいね。苦しみを完全に手放せば、あなたが本当にすべきことが示されるはずよ。感謝して、しっかりと別れを告げてきなさいね」
「うん、そのつもり。じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
母にそう言うと、ドアを開け放つ。肌寒い風が心地いい。肉体に纏わり付いていた汚物が拭い取られ、世界は前向きな色を取り戻しつつあった。私は最後になる通勤経路をじっくりと味わいながら歩いた。母に言われた通り、最後の最後まで味わい尽し、感謝して別れを告げるつもりだった。電車に乗り、窓の外を凝視する。見慣れた景色が横に流れているはずなのに、色が濃い。これが本来の色か。いや、私の精神状態が変わっただけで、景色本来の色など私は一度も見たことはないのだ。どうすれば本来の世界の色を見ることができるのだろうか。
電車が職場の最寄り駅に停車した。退職を宣言した日から、職場が近付いても肉体の不調は訴えてこなくなった。改札を抜け、職場に通じる道を踏みしめていく。店長に横領の疑いをかけられた日、私とすれ違う他者を見て、私と代わって欲しいなどと馬鹿なことを考えた。私の人生と向き合うことができるのは私しかいないのに。それほどあのときは深刻になっていた。苦しかったのだ。
職場に着くと着替えを済ませ、厨房に向かう。
「おはようございます」
自分の声はいつもと変わらないはずだが、妙に低く響いたように思えた。
「おはよう」
従業員たちから口々に、気の抜けた挨拶が返ってきた。私を横領の犯人と決め付けたことで生まれた気まずい雰囲気も、一ヶ月近く経った今では随分薄れた。こうして過去の犯罪の数々も忘れ去られてきたのだろうか。タイムカードをスキャンし、廊下に出ようとすると、店長に呼び止められた。
「今日で最後か」
「はい。今までお世話になりました」
「帰るときロッカー片付けて、タイムカードと社員証置いて行けよ」
「分かりました」
最後の最後までぶっきらぼうな人だな。そう思ったとき、
「……ご苦労さん」
控えめに背中に飛んできた言葉が妙に温かく、笑いが込み上げてくる。
「ありがとうございます」
その日は入社してから一番穏やかに過ごすことができた。今日で最後だというだけで、こうも楽になるとは。これなら続けられるのではないかと思ったが、すぐに思い直した。もう辞めると決めたから楽になれたのだ。
夕方五時過ぎ。私は従業員全員にこれまでの礼を述べ、仕事を無事に終えた。タイムカードをスキャンし、着替えを済ませると、ロッカーのすべての私物を用意していた紙袋に詰め込んだ(殆ど物を置いていないので紙袋一つに収まった)。社員証とタイムカードとロッカーの鍵を店長に返却し、外に出た。店を振り返り、その全貌を仰ぎ見る。他の建物に囲まれた店舗は窮屈そうで、私を恨めしそうな目で見詰めていた。
「今までありがとう」
無意識から放たれた言葉に嘘は一片も含まれていない。牢獄を出る直前の母と同じだ。辛い思いをたくさんしたが、私に苦しみの意味を知る機会を与えてくれた貴重な職場なのだ。私は一年間過ごした職場に背を向け、歩き出す。母のように走り逃げての脱出ではないが、今確かに、私も牢獄から脱出したのだ。自分の心が創り出し、勝手に自分を雁字搦めにしていた牢獄から。
三月の空はもう暗い。立ち止まって空を見上げた。こうしてゆっくり空を見るなど、随分久しぶりのような気がする。この一年、私の人生から、落ち着いて何かを見るという行為が消え失せていた。淡い星が笑いかけるように瞬いていた。都会の汚染された空気で霞んでいる。この空気の汚れを取り払い、綺麗な本来の星を眺めるために、私は何をすればいいのだろう。
「これからどうしようかな」
歩みを進めながら、口から洩れた言葉。私の望むことは一体何だろう。私は何をしたいのだろう。まあ、差し当たって浮かぶのは――。
「……また絵を描きたいな」
それが仕事に繋がるか、生計を立てられるようになるかなど分からない。だが今思い浮かぶのはそれだけだ。ただ一心不乱に絵を描きたい。アルバイトでもしながら。私が一番無心でいられるのは、絵を描いているときだから。知識や技術など殆どないが、それでも、絵を描くことを愛してやまないから。ここ一年離れていた描く喜びを再び味わいたい。
もう一度空を見上げると、先ほどより少しだけ、星の色が鮮やかになっていた。