目を覚ましたとき、床に汗の染みができていて驚いた。夢の中で、「お前が悪いんだ」という言葉が何度も繰り返し唱えられ、その言葉にのたうち回るほど苦しんだが、まさかこんなに汗を流していたとは。普段見ている夢と内容は同一だったが、私自身を非難する言葉が耳元で雷鳴が轟いたのではと思うほど強調されていた。おかげで今までの人生への否定感が一層強固なものになった。
「私が悪いのか……。全部私のせいか……。はは……」
呟きと乾いた笑いが吐き出された。自嘲的な笑いを吐いたすぐ後に、無機質な涙がどろりと零れた。頭を抱えてその場に蹲り、声を出さずに泣いた。気付くと手が勝手に動き出し、爪でがりがりと頭を掻き毟っていた。冷えた涙が床を打つ。涙が床に染み入るこの光景は何度も見ているはずなのに、今日は一段と心に冷たく鋭く突き刺さった。そんな私に同情などしてくれるはずはなく、冷酷な音を響かせながら鉄格子が開いた。どんなときも労働は囚人を待ってくれない。私は涙を拭い、立ち上がった。そうだ。これも私への罰。私が自ら招いたことだ。顔を背けず、受けなければ。
自分が悪いと思い込み、無理矢理自分を納得させようとすればするほど、鞭の痛みは大きく感じられた。今思えば納得できていなかったのは明白だ。こんな不条理を納得できるほうがどうかしている。しかし悲しいことに、人間は自分を遥かに超える力で押さえ付けられると、心を歪ませ、内へ内へと向かわせることしかできなくなるのだ。怒りを爆発させ、力を跳ね除けることができるならまだいい。人間同士で築く社会なら、あるいはそれも可能かもしれない。だが、ここを牛耳る異形の者を相手に爆発などさせれば、どのような仕打ちを受けるかは痛いほどよく分かっている。文字通り、痛いほどだ。恐怖という鎖が強く私を縛り上げていた。
強者から攻撃を受けたとき、弱者が更なる弱者(と認識している者)に攻撃を仕掛けるのは世の常だ。看守に怯えた私は、その恐怖により生じる重圧を人面ブロックにぶつけた。運んでいる途中に転倒した私を、ブロックたちが笑った。私は山の上にあったブロックの一つ、一際甲高く耳障りな声を発する一つを思い切り殴った。生前の私からは考えられない蛮行だったが、そうせずにはいられなかった。私の心を映し出したかのように、ブロックの顔が急に醜く、腹立たしいものに見えたのだ。拳は小さな鼻に命中した。ブロックは鼻血を流しながら激怒し、私の右手に噛み付いた。ちょうど手首から下が口の中に隠れ、鋭利な歯が肉に食い込む。めきめきという軋みが骨を伝って脳に流れ込んできた。激痛に悲鳴を上げながら、私は必死に左手でブロックの顔面を殴打し続けた。だがブロックは血走った目を光らせながらがりがりと手首に食らい付いて離さず、遂には鈍い音を立てて手首を食いちぎった。ちぎられた拍子に後ろに倒れた。想像すらしたことのない光景が目に飛び込んできた。手があった所から血が大量に吹き出している。肉は抉られ、血に濡れた骨が二本見えた。思考が真っ白になって固まり、私は力なくその場にへたり込んでしまった。現実に起こっていることだと理解できなかった。
「あ……あ……」
震える呼気を吐き出したとき、轟音と共に背中に真っ赤な口が裂け、絶叫が口から飛び出した。鞭で打たれたのだ。あまりのことで呆然自失してしまったが、規則はいつでも変化しない。労働の手を止めたら、何時でも身体に口ができる。右手首と背中の痛みに悶えながらも何処か冷静な自分がブロックに目を遣った。ブロックは不機嫌な笑みを顔に貼り付け、ぼりぼりと鈍重な音を立てて私の右手を骨ごと咀嚼していた。自分の身体の一部を食物にされるという恐ろしい体験をこのとき初めてした。出血と発汗と痙攣が止まらない。
「俺を殴るんじゃねえ!」
喉を鳴らして手首を飲み込み、下品なげっぷをした後に、ブロックが鋭い口調で唸った。いつもの甲高い声ではなく、ドスの利いた低い声だった。鼻血と私の血で顔の下半分が赤く染まり、その顔で怒りに吠える様は、私を怯えさせるには十分すぎる力を持っていた。ブロックは舐めることと騒ぐこと以外何もしてこないだろうと思い込んでいたが、そんな甘い考えはあっさりと裏切られた。こいつらがこれほど凶暴で危険な存在だとは思いもしなかった。私はそんなものを毎日運んでいたのか。この瞬間、私より力のないものはいなくなり、怒りを爆発させる対象はこのとき消えた。重い無力感にしがみ付かれながら山に這いより、別のブロックに手を付けた。目は見開かれたままで、息も整わない。
「身に染みたかい?」
楽しそうに甲高く笑っている。言い返す気力などあろうはずもなかった。右手が使えず、ブロックを持つことができない。剥き出しの骨と肉が擦れて痛む。出血が止まらず、ブロックの側面を赤く染めた。
「べとべとじゃねえかよ」
微動だにしない。私は完全に焦りに飲み込まれていた。まずい。このままではまた折檻を受ける……。身体が震え、呼吸が胸まで勢いよく、しかしのたうつように這い上がって来る。負傷した箇所が痛むだけで、力を入れても何にもならない。
「ああ、もうどうしてこんなことに……」
また涙が出てきた。自分は何をしているのだ。持ち上げられないものを持ち上げようと必死になっている。左右の手が揃っていないのにできるはずがない。それなのに、罰を受ける恐怖心から達成できもしないことに尽力している。両親に怒られる恐怖でやりたくもないことに一日を埋め尽くされていた頃と何も変わらないではないか。ただ、苦しみが異常に大きくなっただけ。殴りなどしなければよかった。ああ、また私は過ちを犯したのだ。そう思ったとき、後ろから重々しい足音が響いた。
「右手を失くしたのか。どうしようもないな、お前は」
来た。怖れることはすぐにやって来る。看守は私の首を掴むと、労働場の中心に連れて行った。もがく力もなく、されるがままに引き摺られていく私。
「仕事ができなくなる傷作りやがって。残りの時間、風呂にでも入ってろ」
他の囚人たちがブロックを運びながら私をこそこそと盗み見ている。看守が高々と足を上げ、床に振り下ろした。地震のような揺れが起こり、地面に直径三メートルほどの穴が出現した。穴の中は赤々と光る沸騰した液体で満たされている。液体は穴の底に光源があるかのように明るく、残酷な鋭い光を威圧するように放っている。昔読んだ小説に出てきた血の池地獄が脳裏に浮かんだ。穴が出現した瞬間、熱い労働場の空気が更に熱せられた。
「血の池地獄、なんて生易しいものじゃないぞ」
看守が閉じた歯の隙間から息を漏らすように言い放った。鼻が狂ったように動く。こちらの血が凍るほど興奮しているのが感じられた。
囚人たちが怯えた顔で穴を見詰める。気付けば皆手を止め、こちらを見ていた(他の看守たちは何故かそれを咎めようとしない)。ぼこぼこと臓器に響く低音を奏でる液体は、玩具を買ってやると親に言われて喜ぶ子供のように無邪気に笑っているように見えた。肌で感じる温度で、自分がどうなるかが手に取るように分かる。金切り声が喉から飛び出ていた。
「止めて! お願い止めて!」
涙で顔が醜く歪むのが分かる。矜持や人品といった己を覆うものすべてをかなぐり捨て、ただ叫んだ。だが異形の者はそれが愉快でならないという顔で私を見ている。
「良い顔だ。もっと無様に許しを請うてみろ」
「止めてくさい! 許してください! 嫌だ! 止めて! 止め……」
ごきりという重く鈍い音と、鈍さと鋭さを併せ持つ激痛。声が喉ごと握られ潰されたのだ。口から血が勢いよく飛び出した。私は痙攣し、瞬きができずに目を見開いていた。怪物の手も、私の痙攣に合わせるように小刻みに震えていた。巨大な単眼が嗜虐という美蜜の味に歪む。私の潰れた声は虚しく体内に反響し、臓器に吸い取られて消えた。
「久しぶりの風呂だろ? 堪能しろよ」
にやりと鈍く笑うと、看守は私をぼこぼこと踊り狂う赤い液体の中に投げ込んだ。鞭打ちにより走る灼熱の痛みを何倍にも大きくしたようなものが背中を舐め、全身を包み込む。落とされた直後悲鳴を上げたが、喉が潰れていたため音は出なかった。身体を見下ろすと、液体によって急速に溶かされていた。液体は痛みを伴いながら皮膚を突き破り、肉に染み入り、骨に噛り付く。骨の髄まで舐め尽くし、血管も臓器もすべて溶かしにかかる。皮膚が消え、内臓が見えた。胃が破られた。心臓が鼓動しながら溶かされた。肉体が表面から徐々に失われていく様を見詰めるのは何とも恐ろしいものだった。頭部にも液体は容赦なく絡み付く。顔の表面にある眼球は真っ先に消失した。にも拘らず視覚自体は失われず、肉体が溶ける現実を見ている。やがて肉体がすべて消失した。物質的には、私は完全な無になった。しかし、肉体という物理的な存在のすべてを失っても、意識と知覚だけは何故かそこに存在し、激痛を感じ続けた。まるで自分が痛みと同化しているかのように感じられた。
叫ぼうにも喉も肺も無くなり、叫ぶことができない。自分が完全に消えてしまった。だが、それなのに猛烈な痛みは途絶えることなく私を襲い続ける。私の魂が痛みを感じ取っているのだろうか。痛みなど肉体や脳がなければ感じることができないのではないのか。訳の分からない状況に混乱しながら、苦痛を魂で受け続けた。
時間の進み方がどのくらいなのか、生前の時間と比較して長いのか短いのか、この牢獄では分からないまま過ごしてきた。地獄風呂に投げ込まれてからの時間の経過も分からない。まだ終わらないのだろうか。もう何時間も経過したような気がするが、数十分ほどしか経っていないような気もした。誰か時間を教えてくれと思っても、耳も脳もないのだから知りようがない。喉も口もないのだから言葉も発せられない。泣き叫んだりのたうち回ったりすることさえできなくなった私は、激しい痛みを感じながらも、消失したはずの頭脳で考えていた。肉体は完全に赤い液に溶けてしまったが、私は元に戻れるのか。肉体を取り戻せるのか。視界が赤一色に染まっている。高熱を伴った痛みは、私とは痛みなのだと錯覚させた。激しすぎる痛みそのものであり、それ故そこから逃げ出せず、無抵抗に受け入れることしかできないのだと、私の魂は感じた。「痛い」「苦しい」という感情を表現することができず、ただそれらが魂に蓄積されていく。
どのくらい経っただろうか。急に私の意識は上方へと引き上げられた。真っ赤に燃える液体から抜け出し、地面に下ろされた。空気に触れた瞬間、痛みが煙のように和らぎ始めた。労働者たちは、各々の持ち場に戻り、ブロック運びに従事している。私の目の前に、看守が立っていた。気付けば、痛みの温度が下がるのと同時に、肉体が徐々に復元され始めていた。足から順に、肉体の復元が這い上がってくる。骨、血管、筋肉、その他私には名前も働きも分からない身体の構成物が姿を現していた。そして、それに伴い身体に痛み以外の種々の感覚が戻り始めた。下半身ができ上がり、胴体ができ上がる。臓器が出現し、それを筋肉や血管、皮膚などが覆う。不思議と気持ち悪いという気はしなかった。腕も現れた。最後に頭部ができた。脳が現れ、それを頭蓋骨が覆う。口、鼻、眼球が無より生まれ、皮膚ができ、毛髪が生えた。私の完全な肉体が戻った。ブロックに食いちぎられた右手首も再生していた。肉体が復活し切ったとき、痛みも完全に消え去った。が、うまく身体を使えず、呼吸は乱れ、膝が折れて地面に崩れ落ちそうになった。汗が異常に流れ出、身体が震えた。
「風呂は堪能したか?」
看守が意地悪く囁いた。全身で荒く息をしながら、私は看守の単眼を見上げた。声は出なかった。
「自分の身体が溶けていく様を眺めるなんて経験はなかなかできないからな」
そう言うと看守は笛を取り出し、吹き鳴らした。首に鎖が付けられ、私は囚人部屋へと引き摺られていく。私を囚人部屋に放り込み、鎖を壁に繋ぐと、看守は去って行った。鉄格子越しに看守の後ろ姿を見詰める。他の囚人についていた看守たちに紛れ、大きな黒い扉から消えていった。途端に労働場が静寂に包まれた。耳が痛いほどの静けさ。囚人の肉体に、魂に、直接入り込んでくる静けさ。私たちの心を食い殺す静けさ。静寂が煩わしく、私は石の床に寝転がり、目を閉じた。その瞬間、視界が真っ赤に染まった。ごぼごぼという轟音を立てながら私の身体を舐め回し、溶かし尽したあの地獄風呂が視界に蘇った。慌てて目を開けた。冷たい汗が流れ出していた。あの地獄風呂は私の記憶にくっきりと刻み付けられているのだと悟った。きっとこの先ずっと、瞼を閉じれば地獄風呂が広がるのだろうと、半ば確信的に思った。今宵の夢にもあれが出てくるのではないかという考えに、何故か勝手に頭が満たされてしまい震え上がった。