whitbyのブログ

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ドヴォルザーク 交響曲第8番 第3楽章

ドヴォルザークの8番は、英国の会社から出されたために、時に「イギリス」と呼ばれます。しかし曲から感じるのは、ボヘミアの郷愁漂い、スラブ民族の気を湛える、「チェコ」の作曲家の極めて民族的な情緒です。「イギリス」の気配はなかなか見いだせません。ボヘミア的、スラブ的な民族情緒を感じる交響曲、その中にノスタルジーとエネルギーの調和を感じる傑作です。



『超』を付けるのはもう古い!?  古い人間だと思われそうな死語予備軍
デニムのことを「ジーパン」と呼んでしまったり、ベストのことを「チョッキ」と呼んでしまったりして、間違..........≪続きを読む≫

今回は「アメーバ・ニュース」より、テーマを持って参りました。
まずこの「ニュース」の内容ですが、「ジーパン」は死語であり「デニム」であると、「チョッキ」は死語であり「ベスト」であると(「ベスト」も最近は「ジレ」と言われる事が多い気もしますが)こういったお話です。

実際のところ、この記事で挙げられている語は「死語」なのでしょうか。
「ジーパン」「チョッキ」「デザート」「スパッツ」「ジャンパー」「乳母車」と、これらの言葉は多くの方が使っていらっしゃると思います。活きていますね。一部の世代、一部の人々の下でも、慣用されているのであれば「死語」でなく「活語」です。
したがって、「死語」とは言わず、「世代語」とでも言いたいなと、思います。

若い世代はことに、新しい語を生み出す、というのが世の常ではないかと思います。この世代の人々は流行に敏感な人が多く、次々と新たな流行語を生んでは広めていく世代、これはいつの時代もそうなのでしょう。一方、世の中に生きているのはこの世代の人々だけではありませんね。歳上の世代の方々も共に生きているのです。歳上の世代の方々にも、過去には「流行語を次々生む世代」である時期があったはずです。そしてまた幼い子供達はこれからその「世代」となる時期が来る、これは疑い様の無いことだと思います。
すると、どの世代の方々も、自分達の世代での「世代語」を持つことになりますね。これは一種の文化と言っても良いでしょう。

「ジーパン」というのも、流行語であった時期があったのでしょう。当時の歳上の世代がそれをなんと称していたかはわかりませんが、もしかすると、「『ジイパン』とは何ぞや。最近の餓鬼どもは趣あらざること沙汰の限り。吾等はこれを『紺色斜文袴』と言うべし」と仰っていたかもしれません。もしかすると「西洋斜文袴」とか「洋風作業股引」なんて言葉だったかもしれませんね。
冗談は冗談として、『何とか袴』の世代有り、「ジーパン」の世代有り、「デニム」の世代有りで、それぞれの世代語をもっているとなれば、それは「言葉の異文化」とも言えるでしょう。
空間差による異文化、つまり地域的な異文化は重んじ、時間差による異文化を軽んじるという理はないはずです。
若い世代が時代遅れだの死語だのと言って親世代の言語文化を貶し、親世代が流行なんぞ餓鬼なんぞと言って若い世代の言語文化を貶すことは、日本人がわざわざロシアへ行って「ピロシキなんぞ」と鼻で笑い帰ってくる様なものではないでしょうか。またわざわざブータンへ行って「文明遅れ」と罵る様なものではないでしょうか。
わざわざ世代ごとに対抗し、貶しあい罵りあって、己の徳を失する理はないでしょう。横柄になること無く、恥じ入ることもなく、互いの言語文化を異文化として楽しめれば良いなと思います。

楽しむ気持ちで接してみると、この言葉の異文化はなかなか面白く感じられるものです。
例えばこの記事のコメント欄に、親世代の方が「現政府」のことを「大本営」と仰っているというコメントがありました。(厳密に定義し出すと「大本営」は軍部であるから云々となるでしょうが、ここでは定義等譲って差し支えないでしょう。)現政府の有様と、威厳や力強さを感じる「大本営」という言葉、この不似合い極まりない感覚は、特に可笑しさを感じさせてくれます。
カタカナ語もやはり面白いもので、
福沢諭吉の「学問のすすめ」に「エクウヲリチ」という言葉が出てくるのです。これが何を指しているのか、皆様御察しになられますでしょうか。とてもわかりにくいのですが、これは"equality"なのですね。こういった言葉にも、何だか一種独特の面白みと趣を感じます。
ところでです、この「エクウヲリチ」を少し現代的に「イコーリティ」などと言ってみた所で、やはり本来の音を表しているようには思えないのです。
つまりカタカナというのは外来語の為にあるもので、これは日本独特の言語文化であり、外来語というのはどこまで行っても一種の日本語だと思うのです。
したがってパスタだスパゲッティだと言うのは、元はイタリア語でも、やはり外来語に分類される日本語ではないかと思うのです。
そして歳上世代の方々は、「パスタ」の中の麺類の総称として「スパゲッティ」を使ってきたわけです。その世代にとってはそういう意味の「活語」なのですね。それを今、スパゲッティというのは「パスタでも1.8mmか2.0mmの麺状の云々」であって、極一部のものを言うのであるから、パスタと言うべしと言ってみることで、譲って差し支えない定義を云々し、拘ってみても仕方がないと思うのです。まして歳上世代が一種の総称として外来日本語「スパゲッティ」を用いているということは、お互い明確にこれを解しているはずです。およそ譲って差し支えない所の言葉の定義に拘り、言葉を大事にするとか、重んずることだと主張することは、実のないことだと感じます。
スパゲッティという言葉は外来"日本語"であるとすれば、そして何よりそこに一世代の文化を孕んでいるとすれば、御年配の方がカッペリーニを指してスパゲッティと呼んだところで、その言葉に対し弁解の必要もないでしょう。それに対しイタリア人が自国の言語を軽んじられたと言う理も無いと思います。私達は弁解でなく、自国文化を了解させるための説明をすることでしょう。「スパゲッティと言う言葉は、日本において云々」と、一つの言語文化として、自信を持って説明して差し上げれば良いことだと思います。もしイタリア人がその言葉に感心を抱かれるのであれば。
日本人も、「マルチャン」が海外では即席麺の総称となり、「早い」という意味の形容詞にまでなったと知るにあたり、言語を軽んじられたなどと怒ることはないでしょう。そこに文化を見て、面白く思われることと思います。

パスタの定義などに拘って見た所で、一方において私達は「鋭意」だの「義」だの「愛」だのと、その深い真義をろくろく考えも意識もせず、重んずることなく、軽々しくも言い散らかし書き散らかして、更にはしばしば真実とはかけ離れた言葉を放ち、散々言葉を軽んじてその真価を地に落としてしまっているものです。

譲って差し支えない所には拘らずして、重んずるべきを重んず。
言葉を大事にするということは、こういうことだと思うのです。

そして、わざわざ世代間に居立ち、火薬の役割を担っている「死語」という言葉、これこそまさに死語とし、打ち払わんのみと、申し上げておきます。
同じ国内でも感じられる「言語の異文化」、些細な拘りの為にいがみ合うことなどせずに、これを相互理解し、楽しんで行けたら良いなと、思います。

心苦しくも長々と駄文を書き散らかしてしまいました。
お付き合い下さった方、心から御礼申し上げます。有り難うございました。
今週も一週間お疲れ様でした。
それでは皆様方、良い週末を!

Grimshaw - "Autumn Scene Leeds"
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