ある朝、コーヒータイムが終わって間もなく、トニーが慌てて明子たちの部屋へ飛び込んで来た。すぐに数枚タイプしてほしいそうだ。明子は昨日からエラに頼まれた、所長さんの手紙の清書をしている。所長さんは一度タイプした手紙を、何度も推敲するので、清書の仕事をよくもらう。自らの考えをより正確に伝えるために、これほどの情熱をかけることに、明子は敬服している。

「アキコは、所長さんので忙しいけど」と、エラ。

「いや、うちのほうも急を要するんだけど。今日中に投函しないと」トニーも必死だ。

「それなら、もっと早くに言ってもらわないと。昨日にでも…」

 そこへ、階段を上がってくる音がして、看護師メアリが現れた。

「あなたも、メアリ?」と、エラは不機嫌にきく。

「ええ、手紙をひとつ」

「いつまで? 今はとりこみ中で、今日は無理よ。明日ならいいけど」相手に有無を言わせない。

「明日なら、必ずしてもらえる?」とメアリはあっさりひきさがる。エラがうなずくと、メアリは明子のほうを見て、「じゃ、明日よろしくね」とにこっと笑って、素早く姿を消した。

エラは、やれやれ、ひとり片づいた、というふうに、「じゃ、アキコ、すぐトニーのにかかって」と言った。それをきいてトニーはほっとしたようすだったが、明子も同じくほっとした。メアリが現れる前、エラはトニーにかなり腹を立てていて、一戦交えるのか、とひやひやしたからだ。

 トニーの仕事は案外簡単で、短時間で仕上げられた。エラがそれほどむきになる必要もなかったのに、と思う。

 タイプした数枚をトニーに届けに二階へ降りた。トニーたち三人の部屋へ入るのは初めてだ。ドアを開けたとたん、部屋中がもうもうと煙っている。発生元はトニーがくゆらすパイプだと、すぐ気づいた。今まで、たばこを吸う人とは知らなかった。三人分の机と、本棚、書類の山があちこちはみ出している棚でいっぱいで、身動きするのがやっとの狭い部屋だ。もう十月も近く寒くなってきたので、窓もぴたりと閉まっている。たばこの煙が苦手な明子は、書類を渡すと、すぐ三階へ戻った。

翌日は約束通り、メアリの番で、小ぶりの便箋三枚の短い手紙を預かった。一人になり、これならすぐできるはずと読んでみて、困ってしまう。ところどころ判読不可能なのだ。悪筆というのではないが、日本の草書体のように、個性的にくずしてあり、短い単語ほど見当がつかない。何度読んでみても、解読できない。あいにく、エラもシーラも留守で、メアリにききに行くしかない。

 二階の部屋にはメアリだけがいて、同室のアンナとスーザンは外出中だった。メアリはアフリカに長く滞在していた看護師さんと聞いていて、そのてきぱきした態度がエラに通じるところもあり、厳しい人では、と明子は考えていた。それで、恐る恐る不明な箇所をきくと、

「あ、それ、○○よ。ハハハ」と元気に答えた。日に焼けた肌は、健康的で美しい。

「今度から、もっときれいに書くわ。悪かった。でも、つい、こうなるから、いつでもきいて」と言われ、明子はほっとした。用事はすぐ終わったが、ちょっと話してもいいのかな、と思い切ってきいてみた。

「このお手紙に、ウガンダってありますが」

「そうよ。アキコ、どこだか知ってる?」と言いながら、メアリはうしろの本棚に手を伸ばして、立ててあった写真を見せてくれた。多くの現地人に囲まれた看護師姿のメアリが写っている。明子は、「アフリカの…」とまでは言ったものの、それから先は続かなかった。メアリは今度は地図を開いた。ウガンダはアフリカ大陸の中東部、赤道直下の国で、まわりをケニヤ、タンザニア、ルワンダ、コンゴ、スーダンに囲まれ、ビクトリア湖がある。

「ここへ行ってらした?」

「ええ、二十年くらいね。無医村だから何でもするけど、結核予防の指導をするのが中心で。あ、今も時々行くのよ。次は、来年の春」と、メアリは、それが本当に楽しみ、というふうににっこりした。

「お医者さんのいないところなら、みなさんすごく待っているんでしょうね」

「あ、それはものすごい歓迎で、恥ずかしいくらい。だから、できる限りのことをして、頑張らないと」と答えたメアリに、多くの人の命を助けたいという強い願いを感じた。途上国で働く医師や看護師のことを偉人伝などで読んだことがあったが、そんな人と身近で話すのは初めてだった。

 トニー、バート、メアリのタイプをすることが多いが、たまにヘレンもレポートなどを頼んでくる。若い女性らしい、活字体のきれいな字で、読めない単語はない。指示も適切で、わかりやすい。エラによると、明子の来る半年前に研究所に入ったそうで、二十人以上の志願者の中で、最年少、ケンブリッジ大学の修士課程を終えたばかりのヘレンが採用された。よほど優秀なのだろう。そのヘレンは、明子に頼むときも丁寧で、好感が持てる。

 専攻する統計学の第一線の仕事に若くしてついたヘレンは(それについてはイアンも同じだが)、強運の持ち主に違いない。しかし、「不公平」を事あるごとに連発するアンナが羨むほどではないようだ。

 半月ほど前、ヘレンは風邪をこじらせて、一週間ほど研究所を休んだ。ロンドン市内に下宿していて、お友だち何人かと一緒のフラットだから、心配はいらない、とアリスにきいた。その後、復帰してきたが、まだ咳をしていて、顔色もよくない。

「ヘレン、大丈夫? 完全によくなったの?」ときくと、

「ありがとう、アキコ、もう平気よ。…咳はうちでは止まっていたのだけど…」

「あの部屋へ入ったら、また出始めた?」

「ええ、実は、そうなの」とヘレンは言いにくそうに言う。

「どうにかならないかしら? わたしも入るだけで苦しいわ」

「パイプ」という言葉は二人とも使っていないが、十分話が通じている。ヘレンは一段と声を落とし、「本当は困っているの…内緒だけど…」とおずおずと言った。 明子はヘレンが気の毒で、ついおせっかいだとは思いながらも、言ってしまう。

「ひどいことね。イアンと一緒に話してみたら?」

 トニーは無神経すぎると、あのパイプの煙を体験して以来、明子は秘かに怒っている。狭い相部屋で、たばこ以上にもくもくと煙を出すパイプなんて…。医学に関わっているからには、喫煙と病気の因果関係を知らないわけがない。ビスケットを振舞い、ユーモアがあるトニーは、たばこ以外では紳士的で、みなに好かれている。博士号もある彼が、どうして自分のパイプが他人の迷惑になっていることに気付けないのだろう。

 部屋のもう一人の住人、イアンも、見るたびに煙の中で顔が上気していて、たばこは苦手そうだ。ならば、ヘレンとイアンで、トニーにひと言話してみればよいのに。スウェーデン人のアンナがあれほどはっきり物を言うのだから、そこはイギリス人同士、ざっくばらんに話せばよい。おまけに、三人は合理的な考え方ができる科学者で、ついでに、三人ともケンブリッジ大の出身者……。とここで、明子は思い当たった。だから、ヘレンは何も言えないのか、と。

 若いヘレンは就職したばかりで、エラやメアリの人生経験はない。それに、もともとおとなしく、控えめな性格で、トニーは先輩。働くことは、どこの国でも大変だと、明子はしみじみ思った。

つづく