朝九時に出勤すると、まずコーヒータイムだった。三階の、いつもは二人しかいない、たいして大きくない総務の部屋へ、各階に散らばっている十数人が集まってきて、コーヒーを受け取る。それからすぐ自分の持ち場に戻っていくのかと思いきや、そのままそこにとどまり、雑談が始まり、それが二十分、三十分と続く。明子が働き始めて今日で五日目になるが、毎日、同じように行われているから、驚きだ。

 二か月前のこと。夫の洋は東京の勤務先から、ロンドンの研究機関に派遣されることが決まった。実は、洋の先輩の島田さんが予定されていたのだが、体調を崩され、急遽、洋が代わりを務めることになった。妻も一緒に渡英してよいそうだ。

「どうする、明ちゃんも来る?」と洋。答えはわかっているのに。

「もちろんよ。このチャンス逃すなんて、ないわ」

「でも、僕は忙しいから、一緒には行動できないよ。家にひとりじゃ、つまんないかも。ほら、山本さんのこともあったしね」

 以前に、山本さんという上司が留学中に、一緒に行っていた奥さんが、精神的にまいってしまった、ときいたことがあった。

「大丈夫、わたしは。心配いらないわ。英語の勉強もいいし、働けたらもっといいな」

 調べてみると、日本人男性が学生として滞在する場合は、妻はパートでなら働くのが許されるとのことだった。

 そこで、ロンドンに着いたとたん、タブロイド版の夕刊紙の求人欄で探し始めた。タイピストの口がいくつかあったが、虫メガネが必要なくらい小さい字の、短い募集ばかりだ。そのうちの、「パートタイム・タイピスト、WC一区。電話○○○○○○」にかけてみる。

「まず、面接にいらしてください。ユーストン・スクエア駅から二分のところです」

 ロンドンに来たばかりの明子は、ユーストンは初めて聞く名で、つい、「ヒューストンですか?」と聞き返してしまった。NASAのあるテキサス州ヒューストンを思い出したからだ。

「いえ、ユーストンです。キングズクロス駅の隣がユーストン駅で、そこからすぐの、地下鉄ユーストン・スクエア駅で降りて、ガウアー・ストリートの一一五番地です」

電話の向こう側では、ユーストンを知らないことに、驚いているようすだった。

 それからすぐ、明子は地図とガイドブックを広げてみた。WC一区はロンドン中心部にあった。ピカデリー・サーカスやトラファルガー・スクエアなどがある、劇場、映画館、ブランド店の立ち並ぶロンドンで最も賑やかな繁華街からは、一キロも離れていないが、WC一区内へ一歩入ると雰囲気はがらりと変わり、大英博物館、ロンドン大学、美しい公園がいくつもある、静かな文教地区となる。この一帯はブルームズベリーと呼ばれ、二十世紀初頭、作家のバージニア・ウルフ、E.M.フォスター、経済学者ケインズ、哲学者バートランド・ラッセルらが集まり、文学、芸術、哲学を語ったところだそうだ。

つづく