それは万里さんのことだった。石井万里さんとウルリッヒ・ユルゲンスは来春にも結婚するそうだ。今年の夏、シュトゥットガルトで二ヶ月間しか会っていないのに、もう決めてしまったのか、と思うが、決意は固いらしい。まだ若いのだから、そんなに急がないで、来年三月に万里さんがJ大を卒業して、就職後、いつか休みを取ってドイツへ彼を訪ねるか、ユルゲンスが日本へ来るか、いずれにせよ、もう一度会って、よく話し合い、気持ちを確かめ合い、それから考えても遅くはない、と万里さんのご両親も言っておられる、とあとから加わった森由美さんが言う。僕たちもみな、それが筋だとうなずく。しかし、万里さんはそれを断固拒否し、ドイツでの研修前にすでにもらっていたA社からの内定も辞退したそうだ。
これはただ事ではないとみなうなずき、忘年会の後、四年生だけの二次会で、当人にじっくり話そうということになった。
万里さんには、帰国の日のフランクフルト空港以来、会っていなかった。忘年会にやって来た彼女は、ハイデルベルグの船上パーティであまりふくよかになっていて、すぐには誰だかわからなかったあの時よりは、ほっそりしていたが、元気そうで、みなの心配をよそにけろっとしていた。
まず、東京支部で僕たちの代のリーダーを務めた平川君が、万里さんに確かめた。
「例の噂、本当なの?」
やはり、その通りだった。すると、山田君が待ってましたとばかり口を開いた。
「決めたって? まさか! いくら何でも早すぎるでしょ。一生のことだよ。もう一度会ってからじゃだめなの?」
興奮しているからか、山田君の言い方は失礼にもきこえる。しかし、万里さんは怒るでもなく、淡々と答える。
「そう思われても仕方ないわね。でも二人でよく話し合って決めたから……」
「『話し合って』って、ドイツにいる時にもう決めたってこと? たった二ヶ月しかいなかったのに? 悪いけど、あいつ、いや、失礼、彼のことまだ何もわからないんじゃない?」
山田君は、ばかばかしい話だと言わんばかりだ。
「それがそうでもないの。毎日手紙を書いてるのよ。二人とも」と言って、万里さんはちょっと恥ずかしそうな顔をした。「あれから一日も欠かしてないわ。会っているより、わかりあえることが多くて、驚いてるの」
これには、みんなどう反応してよいかわからないで、ぽかんとしている。少しの沈黙の後、山田君がまた続ける。
「でも、それ、英語ででしょ? 二人とも英語は得意だろうけど、でもしょせん外国語じゃないの。万里さんにとっても、あの人にとっても」
一緒にドイツへ行った川井君も加わる。
「そうだよ、それに、あっちへ行ったら、全部ドイツ語で、大変だよ。ドイツ語は難しいからなあ」彼はドイツ研修中を思い出しているのだろう。「万里さんはドイツ語もよくできるけど、でも英語ほどではないよね。きっと苦労するよ。それでも大丈夫なの?」
「ええ、それはよくわかっていて、今猛勉強中よ。ドイツ語の授業にいくつも出ているし、J大のドイツ人神父様に週三回個人レッスンをお願いしているの」
万里さんは不安などまったくないようすで、嬉しそうに言う。
みなため息をつくばかりで、返す言葉がない。彼女の意気込みに勝てる人はいない。沈黙の後、飯田君が、やけっぱちのように、半分独り言のように言った。
「せっかく内定をもらったのにねえ。A社だったよね」
飯田君は就職で苦戦した、ときいていたので、切実さが伝わってくる。僕も余計なこととは思いながらも、つい言ってしまった。
「J大で頑張って、難関のA社に入れて、これからしたいことが、いっぱいあったはずだよね?」
「それは、あの時はあったけど……。今は違う。もう、そんなこと、どうでもいいの。未練はぜんぜんないわ」
万里さんにはドイツでのウルリッヒ・ユルゲンスとの未来だけが見えているのだろう。万里さんの言葉通り、彼女の心には迷いなどまったく存在しないようだ。
しばらくの間、何とか思いとどまらせようと、繰り返し同じような会話が続いた。発言するのは主に僕たち男子学生で、由美さんたちは、あまり話さなかった。何を言っても無駄だ、とみなが気づき始めた頃、ふと万里さんが言った。
「心配してもらってありがたいけど、わたし、本当は今日にでもドイツへ飛んで行きたいの」
これにはもはや言うことはなく、みな黙り込むしかなかった。
つづく