店主の立つカウンターには、『イブニング・スタンダード』が山積みになっている。最終版にちがいない。

 すぐに一部を買い求め、うきうきした気分で、家路へ急いだ。帰宅後すぐ、淳はキチンに向かい、由里は久しぶりに例の作業に取りかかる。キチンテーブルに新聞を広げ、細かい文字の並んだページに顔を近づけると、小さな広告のひとつが浮き上がるように、由里の目に飛び込んできた。

「2DK貸家、W13区、プロフェショナルのみ。電話 ○○○○○○」

 どきっとする。すぐ淳を呼んだ。走ってきた淳も、そのひどく小さい広告の文字をゆっくり、かみしめるように読んで、「うん」と大きくうなずいた。W13区はノースフィールズ駅のあるところだ。由里は震える手で電話をかけた。

 勘は当たっていた。その広告はノースフィールズ駅から近く、由里たちが探している条件にぴったりの貸家だった。ただ、「プロフェショナルのみ」の一語が引っかかる。イギリスで「プロフェショナル」というと、医師、看護師、弁護士などの、国家試験に合格して免許を持つ専門職の人を指す。当然、うちはちがう。

 何か問題がある時には、ここですぐに質問して、解決するのが一番、と今までの経験からわかっていたので、思い切ってきいてみた。

「うちは、プロフェショナルではないのですが...」

 「でも、ご主人、お勤めでしょ?」と電話の向こう側の女性。

「はい、日本の旅行会社の社員です」

 それならよいとのこと。よかった、とほっとする。「プロフェショナル」はこの広告では、「学生ではなく、働いて生計を立てている人」、を指すようだった。

 日本人であることも伝えたが、たまに経験したことのある拒否反応には合わず、むしろ歓迎のようだった。

 

 

 話はとんとん拍子に進み、由里と淳は一か月後にプラーストウからノースフィールズへと、無事引っ越すことができた。

 駅から七、八分歩くと、煉瓦造りの小学校が見えてくる。通りをはさんでその向かいには緑地があり、そのまわりを取り囲むように、二軒続きの家がいくつも並んでいる。そのうちの一軒が由里たちが借りた家だった。築八十年とかでとても古い煉瓦造りだが、今回改修されて、半地下に台所、一階はリビングルームとバスルーム、2階に寝室ふたつで、機能的だ。家の前の細い通りの向こうは緑地で、家の中からプラタナスの大木が何本も、そしてその先には小学校が見える。

「昔は村の共同緑地だったらしいですよ、お祭りなんかもあったのでは」と、契約の時、大家さんが話していたが、それを感じさせる、のんびりした、なんとなくなつかしい佇まいだ。環境は申し分ないし、ヒースロウ空港も近くなって、淳の早朝の日参もずいぶん楽になった。

 

 あの日の昼過ぎ、腹痛が起こらなかったら…。由里はプラーストウの家でただ漫然と、午後のひとときを過ごし、外出することはなかっただろう。

 あるいは、ここで奇跡が起こり、突然、このところ何日も家探しをさぼっていることを思い出し、やれやれ、たまには新聞でも買いにいこうかしら、と行動をおこしたかもしれない。イブニング・スタンダードの第1版を買って帰り、新聞をひろげて、突如変にやる気が出てきて、3時すぎに、第2版も買いに行ったかもしれない。もちろん、そんなことはないとは思うのだけれど。 

 では、第2版も買ってきたとして、そのあとはどうなっただろう? 夏も終わりに近づき、だんだん日暮れが早くなってきたから、最終版はもういいや、省こうと、外出しなかったのではないか? 最終版を見なければ、もちろん、あの貸家の広告にはめぐりあうことはなかった。

 それが実際には、急にお腹が痛くなったせいで、病院へ行くことになった。診察を待っていたが、その機会はとうとう来ることはなく、何時間も待ちくたびれたところへ、淳が来てくれたが、気づけば、問題の痛みは消えていた。病院を出るともう夕暮れで、二人は初めて通る道を幸せな気分で、家路につく。すっかり暗くなった大通りの前方に、美しく明かりの灯る店を見つけ、近づくとニューズ・エージェントだった。迷わず、中に入る。三、四日まったく買っていなかったイブニング・スタンダードを手にして帰宅。そして、あの広告との運命の出会い。

 それに加えること、もう一つ。あの日、クレオパトラ先生が言っていた「内診」とは、婦人科検査のことだと、あとになって知った。早く診察をしてほしいと長らく待っていたのに、結局先生は現れなかった。しかし、そのおかげで内診には至らず、先生をわずらわせることもなかったから、幸いだった。

 それにしても、突然痛くなり、自然に消えたあの痛みはいったい何だったのだろう。今も不思議でならない。

終わり