陽子の知っているカスタードは、卵、牛乳、砂糖、バニラ香料で作る。一方、この缶の側面には、「材料: コーンフラワー、砂糖、着色剤、香料」とある。コーンフラワーとは、トウモロコシの粉のことだ。

 まさか! わたしをこの三か月間支えてくれたのは、トウモロコシの粉だった? 卵はもちろん、入っていない。黄色い色は着色剤によるものだった。栄養価の高い本物のカスタードとは全く異なる代物だったのだ。陽子は裏切られた気がして、返答ができず、一瞬黙ってしまう。

 陽子のがっかりした様子に、ジェーンもすぐに気づいた。

「あら、ヨーコ、知らなかったの? カスタードソースはインスタントだったって。フェイクだから、学食でもあんなに気前よくかけてもらえるのよ」ジェーンは笑っている。

「そうね、本物なら、ああはいかないわね…」 陽子はまだ動揺してはいたが、だんだん笑顔が戻ってきた。それでも、ジェーンは少し同情したのか、

「知らないほうがよかったかな…。あ、でも、いいこと教えてあげる。ヨーコはこういう話、好きよ、きっと」と話しはじめた。

 

 十九世紀のイギリス、バーミンガムでの出来事だった。薬剤師のアルフレッド・バード氏は、心やさしい人だったのだろう。愛する妻が卵アレルギーで、みんなが好きなカスタードソースを食べられないのを気の毒に思っていた。バード氏はひとり研究を重ね、ついに卵ぬきの、粉末カスタードの素を完成させた。見事な出来ばえだったものの、お客さんを招いての晩餐などでは、バード夫人だけが粉末カスタードを食べ、お客さんには本物のカスタードソースを供していた。ところがある日、メイドの手違いで、お客さんにも、バード夫人用の偽物のカスタードを出してしまう。

 しかし、結果はとても好評で、バード氏はそれを翌年の一八三七年に商品化し、地元に会社を設立、「バードの粉末」として売り出し、大ヒットさせた。以来、イギリス国内はおろか、オーストラリアなどでも、知らないひとはいない。ヴィクトリア時代から現在にいたるまで、国民に愛され続けている人気商品だ。

 

「百五十年以上も続いてるロングセラーを、今も食べているなんて、すごいのね」と陽子は感心して言った。さきほど味わったショックは、もうすっかりおさまっている。

「そうねぇ、結局イギリス人って、調理に手間をかけたくないのよね。ほら、ほかにもいろいろ粉があるわ」と笑いながら、ジェーンは棚や引き出しから、缶や紙箱をいくつか持ってきた。

「『肉汁の素』って、ローストビーフにかけるあのグレービーのこと?」と陽子は手に取ってみる。

「そうよ、本式にはフライパンで本物の肉汁から作るところを、この粉に水を混ぜて、煮るだけ。大幅に時間短縮できるわ」

ジェーンは自分でもおかしそうに言いながら、次はマッシュポテトの素を取り上げる。

「ジャガイモをむいて、茹でて、つぶすなんて大変。この粉に水を入れて、かきまぜて、練るようにして火にかければ、あっという間に出来上がり。いいでしょ」とニコニコ顔だ。

 

 「できた料理には味の差があるかもしれないけど、ほかにやりたいことがあるなら、手抜きもよしって、割り切って行動するひとがけっこう多いのよね。合理的なのかな、そういう人たち」とジェーンは自問自答している。なるほど、だからジェーンの家のキチンは、こんなにスッキリして、だれかが長時間、苦労しているようには見えないのかな、と陽子は一瞬思ったが、口には出さなかった。

「このキャセロールも同じで、手間がかからなくて、簡単なのに、案外結果が豪華にみえるのかもね」とジェーンは続ける。

「あら、そんなに手間がいらないの? でも、キャセロールの粉はないでしょ?」と陽子は笑った。

「確かに粉はないけど、でも簡単よ。全部の材料を適当な大きさに切って、生のまま、このお鍋に入れ、蓋をして、あとは三時間ほどオーブンにおまかせ。火加減の調節はいらないし、焦げることもないから、キチンで見張る必要もないの。電気オーブンなら、タイマーセットもできるから、留守をしていても、帰宅後すぐに、できたお料理をお鍋ごとテーブルに並べて、夕食ができるのよ。すごいでしょ。わたしは将来働くようになったら、大いに使うつもり、ヨーコもそうしたらいいわ」

「ええ、わたしもそうしたいわ。日本では、よく炊飯器をタイマーセットするけど、キャセロールみたいなごちそうもできると便利ね。あ、それから、マッシュポテトの粉が気に入ったわ。ジャガイモをむくのがいやだから…」と陽子はにっこりする。

「わたしも皮むきは苦手」とジェーンはうなずく。「お料理する人が余裕があるほうが、スマートだし、家族も幸せよね。キチンでへとへとになるなんて、ごめんだわ。… ところで、ヨーコ、カスタードのおかわりいかが?」

「ええ、でも……」と陽子は一瞬ためらったが、

「あ、そうだ、ジェーン。今、気づいたけど、このカスタードソースには卵は入ってないのだから…、カロリーは気にしなくてよい…」

「その通り。だから、ヨーコ、思いっきりたくさんどうぞ!」

 

 すばらしい発見だ。フェイクのカスタードソースは太らない。インスタント肉汁も偽物だから、栄養価も高くない。カロリーは気にしなくてよい。ただ、イギリス料理がまずい、という評判は、もしかすると、各種の粉によるものかもしれない、という思いが一瞬頭をよぎった。

 しかし、陽子はそういうフェイクをまずいと思ったことはないし、それどころか、今の話をきいて、イギリス人はなかなかやるな、と感心した。やりたいことがほかにあるなら、それを優先して、料理などは手抜きもどんどん取り入れる。その考え方に大賛成だ。

 そして、やりたいことを大事にする。その通りだ。しかし、そんな大切なことを、陽子はすっかり忘れていた。三か月前の入学以来、勉強が大変すぎて、もうただ圧倒され、時に絶望して、自分にはやりたいことがあるのさえ、忘れかけていた。せっかく念願がかなって、英文学を学べているのだから、初心を忘れず、もっとエンジョイしてがんばろう。

 このことに気づかされたことで、これからは、道が開ける、と強く思えた。今まで陽子を励ましてくれたカスタードソースが、今ジェーンと一緒に、よいことを教えてくれた。ありがとう。