勉強の重圧に押しつぶされそうななかで、何とか平常心を保てたのも、食べる楽しみがあったからだ。しかし、陽子は太ってしまった。やれやれ。やはり、イギリス料理は日本人には合わないのだろうか? 日本人が洋食を食べ始めてから、まだ百数十年そこそこなのだから、肉料理や油っこい物、甘いデザートなどは、日本人のDNAには刻まれていないのだろう。もしそうならば、日本人の代謝効率は、イギリス人よりよほど低いのかもしれない。

 しかし、何を言っても、太ってしまったことは事実だから、仕方ない。今すぐ見直さねば…。差し当たり、まず、ボールの当日までに、何とかスカートをはけるようにしよう。

 陽子は一大決心をして、それからは、油っこいものをなるべく控え、デザートは思い切って、全部パスした。ただし、採点されて戻ってきたレポートの成績が、Cマイナス、Dプラスなどの情けない結果の時は、例外とした。そうでもしなければ、前に進めない。ちなみに、ジェーンやトムは、Bマイナスをもらっても、ひどくショックを受けて、短時間ではあるが、落ち込む。しかし、母国語の人にはAマイナスやBプラスが平均値らしいから、ショックも当たり前かな…。 比較しても仕方ないと、陽子はそれ以上は考えないことにした。

 

 そんなわけで、ボールにはなんとかスカートがはけるようになって、出席できた。それどころか、陽子の装いはみんなにも好評だったこともあり、思い切りたくさん踊れて、きらびやかな雰囲気を楽しんだ。そのせいか、来学期は勉強ももう少し頑張れそうな気がしてきたところで、クリスマス休暇に入った。

 ほとんどの学生が帰省するなか、陽子は学生寮にひとり残ることになる。それを知ったジェーンは、

「あら、クリスマスをひとりで過ごすなんて、かわいそすぎだわ。よかったら、二、三日うちへいらっしゃいよ」と誘ってくれた。

 

 ジェーンの実家は、ハルから列車で西へ一時間足らずのリーズにある。叔父さん一家も近くに住んでいるから、ちょっとでも会えるといいわ、とジェーンは楽しそうに言う。

 陽子は学生寮でひとりですごす覚悟はできているつもりだったが、やはり誰もいないのはつまらないし、淋しいな、とも思っていたから、ジェーンの招待は嬉しかった。イギリスに来て以来、イギリス人の家庭に招かれるのは初めてで、クリスマスのお祝いはどんな風なのかも、興味津々だ。

 

 リーズはハルに比べれば大都市で、イギリス第四位の人口を誇る。ジェーンの家は樹木の多い、静かで、美しい郊外の住宅地にあり、陽子が着いた日は寒いが、よく晴れて空がきらきらしていた。ご両親と弟さんは、隣町のブラッドフォードへジェーンのおばあ様を訪ねていて、明日まで留守だった。二階の客間にスーツケースを置いた後、ふたりでちょっと外へ出て、真冬なのに青々とした芝生の庭を案内されたが、寒くなってきたので、すぐ引き返し、暖かいリビングルームでお茶を飲みながら、おしゃべりに花を咲かせた。

 

 気が付くと、外がすっかり暗くなっていた。どこからともなく、よい匂いが漂ってくる。

「そろそろ夕食にしましょ」と、ジェーンの先導で、キチンへ移動する。クリーム色の壁のキチンは、広々して、ゆったりしている。大きい冷蔵庫、大きい冷凍庫、バーナーが四口のガスコンロと容量の大きいオーブン、これまた大型の電子レンジ、大きなシンク、広々して、使いやすそうな調理テーブルが、目に飛び込んでくる。こんなキチンなら、さぞかしいろいろなお料理ができそうで、うらやましい。棚やラックなどもよく整頓されているし、お掃除も行き届いていて、まるでモデルキチンのようにきれいだが、日常的によく使われているという印象は、なぜか持てなかった。

 

 ふたりとも手を洗って、ジェーンが冷蔵庫からすでに用意してあった、アボカドのスターターを出して、パンかごとともにテーブルにのせた。陽子もナイフやフォークを並べるのを手伝う。次に、ジェーンは大きなグラブをして、オーブンからオレンジ色のほうろう製の鍋を、注意深く取り出し、テーブルまで運んだ。よい匂いの元はこれだった。

 アボカドを終えると、いよいよジェーンがオレンジ色のほうろう鍋の蓋を取って、湯気の立ちあがる中身を、陽子の深皿にたっぷり取り分けてくれた。牛肉、ジャガイモ、玉ねぎ、人参、ボタンマッシュルーム、トマト、ハーブなどの入ったシチューに似た料理で、「キャセロール」というそうだ。

オーブンで三時間ほど煮込んであるので、牛肉はとろけるように柔らかく、大きめに切った野菜にはうま味が閉じ込められていて、とてもおいしい。

「すごいごちそう。ジェーンはお料理が上手ね」

「ほめられて嬉しいけど、それほどでもないの。材料を切って、お鍋に入れて、蓋をしてオーブンにいれただけよ」と笑う。

「あら、そうは見えないわ。火加減だって、難しそう…」と陽子。

「一度入れたら、そのままよ。こげる心配もないし。楽をしてるわりには、ごちそうにみえるかもね」とジェーンも満足げだ。

 陽子はおかわりもして、一息ついていると、ジェーンが立っていき、オーブンの下の段から、ふたつお皿を取り出し、それにコンロの上の鍋から何かをすくってかけ、蓋をした。そして、いかにもおかしそうに、テーブルに置きながら、「デザートもまだ入る?」ときく。

陽子は、まさか、と思いながら、そっと蓋をとると、あのカスタードソースがたっぷり入っている。

「大学を思い出すわよね? さぁ、あついうちにいただきましょ」

 

スポンジケーキは近所のお店で調達してきたが、カスタードソースはジェーンが作ったそうだ。

「わあ、感激だわ。大変だったでしょう?」

「え? ぜんぜん。簡単そのものよ…… ちょっと待って、見せてあげる」とジェーンは、棚にずらっと並んだ缶の中からひとつを取ってきて、陽子に手渡した。円筒型の缶の側面には「バードのカスタード・パウダー」と書かれている。ジェーンが缶の蓋を取ってくれたので、のぞき込むと、中身は白っぽい粉末だった。

「これ、インスタント?」陽子はきいた。

「そうよ、これに牛乳を加えて、混ぜて溶かして、あとは温めるだけ」

「卵は入れないの?」ときく陽子。

「入れないわ」 当たり前、というようにジェーンは笑っている。