■混乱と離散の悪魔コロンゾン。その数値は333、その名の綴りはChORONZON、あるいはまたXORONZON――排他的論理和(XOR)の温存。


数理論理学において、排他的論理和とは、与えられた複数の命題のいずれかただ一つのみが真であることを表す論理演算である。排他的論理和の演算子は xor などで表される。

排他的論理和は、論理和、論理積、否定を用いて、

P xor Q = (P ∨ Q) ∧ (¬P ∨ ¬Q)
などと書くことができる。

排他的論理和は、ビット演算を行っている場合に、特定のビットだけを反転させるのによく用いられる。ある数値と、その数値のビットを反転させたい部分を 1 にした数値との排他的論理和をとると、指定した部分が反転した数値が得られる。

0011 xor 0110 = 0101

(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


■排他的論理和(Exclusive disjunction)――それは交わらぬ円の世界、或いはまた交わり(論理積 logical product)の部分を全ての円が切り落とし、黒い無の影に帰した、三日月に削れた孤独な星ばかりの寒い宇宙の情景だ。
 交わらず、己れの孤独の殻に自閉して、彼を取り囲む〈無限の空間の永遠の沈黙〉に恐怖する神経症的なモナドたち――それが、混乱と離散の悪魔XORONZONが描き出し、創造し、あなたの頭に焼きつける〈悪意〉の宇宙の図式である。
 残酷な神が支配する、それはあなたの心を残酷に支配する。あなたの心を残酷が占める。そのおぞましい情景をあなたは心から掻き消せない。それは〈意識〉という装置があなたに見せる最悪の夢、〈現実〉という実にもっともらしい勿体振った名のついた説得力ある悪夢であるのだから。

Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 4-3 オフィーリアとオルフェウス

[承前]


 覚えている、そのときのことを。今も、まざまざと。


 娘は必死にそこから駆け出し、脇目も振らず、恐怖に泣きわめきながら大人たちを呼びにゆく。
 兄さんを池の滸に置いたままにして。


 大人たちを連れて戻ってくる娘の鼓動、駆足、息切れ。視界は激しく揺さぶられる。


 お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん! 


 だが、揺れる視界は絶望的にそれを発見する――しん、として動かない水面。
 木偶のように動かない兄の呆然とした姿。


 兄の不思議な力はどこにいった? 
 どうしてこのときばかりは兄さんは姉の真理を助けられなかった? 
 どうして、どうして、どうして! 


 昔、転落した電車から父と姉を救い出した兄さん。
 盲目であっても、小さな子供であっても、兄は目の見えるどんな大人たちより頼もしい人だったのに。それなのに兄さんは姉をこのとき見殺しにしたのだ。


 娘はそう思った。これが憎しみの、恨みのはじまりだった。


 やがて、このことが理由で、父母は諍いを起こし、離婚した。
 娘は母に引き取られ、姉の真理を溺愛していた母に名前を付け替えられた。


 おまえは真理だ、おまえは真理の分までしっかりと生きて頂戴。


 母は娘を掴み、何だか狂ったような恐ろしい厳かな目で顔の真ん中を見据えて言う。
 呪文をかけるように。洗脳するかのように。


 この母のことを娘は余り好きではなかったが、姉の真理への母の狂おしい思いと、真理を見殺しにしたあの元々薄気味の悪い化物の息子への憎悪が余りに激しく、余りにも繰り返し繰り返し小さな彼女の上にぶちまけられ続けたため、娘も母の毒念に黒く染まった。


 繰り返し繰り返し彼女はその黒い水面を思い浮かべ、水に沈んだ美少女と彼女を突き落として溺死させた悪魔の少年の妄想を上映し続けた。


 時と共に娘が成長してゆくにつれ、この夢のなかの二人の像も誇張され肉付きを深め、異様な幻想へと成長してゆく。
 それと同時に年齢の方も成長してゆく。
 水の滸から動かない男の子も次第に背丈が伸び、体つきも大人びて青年の姿に近づき、水のなかに眠る白髪のちいさな娘もまた次第に美しくその死のなかで生き生きと育っていった。


 やがて娘は姉の像を水死するオフィーリアの形象に重ね、どんな画家も未だ描いたことのない程に美しい女性美の理想の姿へと、その神秘な水の揺籃のうちわに大切に大切に守られた眠り姫は不思議な変容を遂げていった。


 まるで死のなかに安らかで素晴らしい永遠の命があるかのように。


  *  *  *


 ――AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA……。
 叫びは水の弦を震わせて、死者の復活にまつわる不安な楽の音を奏でる。


 だが、この楽の音はどこからきたか? 
 水の弦を奏でる奏者の手が、暗い水の面を吹くかたちない風と霧のあわいから浮かび上がる。


 泉全体を黒く覆い隠していた闇の曇りが晴れてゆくにつれて、その手がゆっくりと蘇ってくる。
 手はヴァイオリンの弓をもち、奏者は水の滸に立つ。
 かたく目を閉じて、湖水に沈む死美人を一心に思い浮かべ、全霊を傾けてヴァイオリンを弾く。


 その思い浮かべる力と楽の音の魔法によって、水鏡に幻の人の姿を呼び出しているのは彼。
 彼のそのひたむきな業こそが、オフィーリアの重い肉体を支え、その場に繋ぎ留めていたのだ。
 さもなければ忽ち、忘却〔レテ〕の河の流れに奪われ、冥界〔エレボス〕の闇に消えうせてしまうに違いないその儚い姿を命懸けで護り、必死に保ってきた泉の番人〔ケルビム〕。
 わたしと娘の神聖な園の守護者。それは、わたしの兄さんだ。


 智天使〔ケルビム〕――エデンの園の生命の樹を守る者。
 エデンとは純潔、無原罪の者だけに立ち入りの許される幻の国。


 ダイモスの女学園、宗教の授業、ノビーナの日にシスターが語った聖母マリアの無原罪の御宿りの講話。聖寵満ち盈てる童貞聖マリアは、人祖アダムから受け継がれたあらゆる罪を神の恩寵によって免れて生まれ、無垢のまま御子イエスを産み、死をうけることなく昇天されたのだという。


 わたしは思う、昇天したマリアを智天使は彼の秘密の花園に迎え入れ、神聖な生命の樹の木蔭に憩わせ、そしてこの乙女の純潔を永遠に守り続ける城となったのだ、と。

Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 4-2 水のおもてに響く声

[承前]


 わたしもまたこのときのことを、そして何よりもこのときあなたが、一瞬、ほんとうに一瞬であるにせよ介間見せてくれた聖なる貌のことを永遠に忘れることはないだろう。


 あなたはほんとうに美しかった。だが、わたしが今もしみじみとその貌を思い浮かべるとき、胸をつよく撃つのは、その貌の神秘的なまでの美しさ、神聖さ、清らかさを凌駕するもの、あなたのその貌が抱えている大きな悲しみと大きな愛のつよく訴えてくるその真実さなのだ。


 娘はその貌のために不可思議な陶酔へと拉し去られてしまった。
 それは致し方ないことだった。


 彼女を満たした余りにも大きな歓喜の陶酔にはそれなりの訳がある。
 運命が彼女を把んでしまって、忽ち彼女は目が眩み、何も見えなくなってしまった。神秘の羽撃く力が真実の重い現存を凌駕し、彼女の溢れる白い心が、その真っ白な波濤の激しさで、下に横たわる深い海を、深く深く深みへと沈むにつれてその青の深さと静けさの濃さを増し、あなたのずっしりとした真実の重みへとのしかかるに至るもうひとつの海の厳存をすっかり覆い隠してしまった。
 彼女は歓喜の故にあなたの悲しみを見失ったのだ。 


 あなたは抱き締められるべきであった、そのときに。


 今、わたしはそのときにそうしなかったことを悔いる。
 あなたがかつて肩を震わせて泣いたとき以上に、あなたは持ち切れない程の悲しみではち切れんばかりだったというのに。
 そしてそうしてあげられさえしたなら、あなたはきっとあなた自身を抱き締められたでしょうに。


 忘れない、その日のことを、わたしは決して忘れない。
 わたしにとって何よりも美しい思い出――けれども、何よりも苦く、悔やまれてならない大きな過ちをわたしが犯してしまったとき。


 過ちを犯したのはわたしだ――娘ではない、わたしなのだ。それを娘のせいにはできない。このときばかりは、わたしは彼女と別人でしたといって済まされはしない。わたしはその瞬間から逃げ出せないのだ。いいえ、逃げ出しはしない。
 わたしはよろこんでこの罪科の苦い時に、苦い涙に結ばれよう。娘に代わって、わたしはこの咎を担わなければならない。あなたが兄の死の咎を引き受けたように、わたしも娘の咎を引き受けなければならない。


  *  *  *


 娘にとっては、だが、それは致し方のないことだった。


 わたしのなかに今、娘から残存してわたしを今でもつよく呼び寄せ続けている思念がある。
 真っ黒な闇に縁取られたひとつの光景がある。
 あなたの心の底の美しく優しい青い泉に、どんな泉が娘のなかで激しく共鳴してしまったかを見て、わたしはとても辛い思いがする。


 それは恐ろしい悪意にどす黒く塗り潰された怒りの泉だ。
 ああ、娘は、こんなに真っ黒な毒の泉をあなたの泉に混ぜ合わせてしまっていたのだ。
 光景を縁取る暗黒は憎しみの黒である。
 泉の滸に悄然と肩を落として、真っ黒な泉を見下ろしている少年が見える。
 少年は不可思議な重い陶酔に把まれて呆然としている。
 その少年に向かって周囲の闇が真っ黒な悪意と憎悪の牙を剥いて襲い掛かってゆく。
 闇は彼女の憎しみ、彼女の怒りに他ならない。


 そして同時にそれは少年の瞳を覆う暗黒の色だ。
 少年の盲目と絶望の色、無力と自責の重く辛い色だ――ああ、わたしは、もうひとつの咎をこのひとに対して背負う。まるで彼はあなたの影であるかのように、また、あなたが彼の影であるかのように、なんとあなたがたは奇妙に似通っているのだろう。また、何と不思議な仕方で結ばれてしまっているのだろう。


 娘は終生そのことを認めまいとした、あなたと丁度一枚のカードの表と裏のようにぴったりとその人が符合しているということを。


 その人の名はミノル。
 あなたと娘の、そしてこのわたしの――わたしたち三人の不思議な共通の兄さん、すべての不幸の源の名前、呪われた、悲しい、いとおしい、狂おしい名前。


 今、その泉をわたしが見つめると、次第に黒い闇が晴れてゆくのが分かる。
 憎しみの曇りが晴れるとき、わたしの兄さんの貌がやっと青い薄明かりのなかに現れてくる。


 わたしはその貌を見て本当に辛くなる。
 ああ、あれはあなたの貌だ――滸に立って、今、わたしの兄さんがその視えない筈の閉じられた瞳を見開いている――そっくりの目許、見間違いようもない、あれはあの時にみたあなたの瞳と同じ色の瞳、見分けのつかぬまでに酷似したそっくり同じの聖母の表情。
 二人はまったく同じひとだったのに、娘はそれが分からないでいた、そのことがとても悲しいのだ。


 わたしは耳を澄ます、兄さんが、そしてあなたが、悲しみのプールのうわべにじっと耳を欹てたように。すると聞こえる、確かに今も聞こえてくる。長く長く永遠に長い尾を引いて途切れることもなく続くあの不思議な声が。
 わたしたちを呼んでいる、呼びつづけて消えることのない、けれども、今にもかき消されてしまいそうな遠くからの女の声。泣き声のようにも、叫びのようにも聞こえる、女の、言葉にならぬ、殆ど旋律といってよい程の、つよく引っ張られた弦の鳴り響くような声がする。


 それは、あなたのお母さんの亡き子の死を嘆いてやまぬ悲傷の啜り泣きであるのか、それとも、わたしの小さなオフィーリアの水に呑まれてゆく断末魔であるのか、女の声の年齢は定まらず、その性質も定めがたい。


 だが、いま、わたしは思う、これこそ時のはじめより、暗い原初の海の上を漂い、果てしなくさ迷いながら、吹いて吹いて吹きやむことのなかったエロヒムの永遠の霊気の声、始まりも終わりもなく無限に続く創造主の聖歌、命の根源からの永遠の祈りの声であるのかもしれない、と。


 わたしはそれを聞く、この底深いセイレーンの歌声を、ひとつの聖音の詠唱を――。


 ――AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA……。


 その叫びからきっとすべてが生まれ、すべてがそこに消えうせてゆくのかもしれない。
 大いなる魔法の音、その不思議な音色に耳を傾けて、凝然と、わたしたちは動けなくなる。


 あのとき、ミノルも池の滸で金縛りにあって身動きができなくなった。
 恐怖からではない。ミノルを縛ってしまったのは、オフィーリアの叫びの底に、聞くものを魅して動けなくする、余りに美しすぎるローレライの調べが響いていたからなのだろう。


 わたしの兄は、池に落ちた姉を、わたしと娘の小さな白髪のオフィーリアを助け出すことができなかった。


 身動きもできず、その視えぬまなこで水面を見守り、まるで姉の唖が彼に乗り移り、彼の声が姉に乗り移ったかのように、一声も発することなく、少女が叫びながら水に沈んで行くのを見下ろしていた。

Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 4-1 そして全てが顕れる

[承前]


……あなたは顔を覆う。顔を覆ってさめざめと泣く。
 覆われたあなたの顔がわたしのなかにふたたび広がり、そしてわたしも覆われる。
 今、このときがふいに覆われ霞んで消え、ふたたび、今がいつなのかが曖昧になる。


 そして、ふと顔を手前に上げると、今目の前にまざまざとあなたがいる。
 そして、わたしはまだ娘のなかに、いや、わたしではなく、そこにはまだ娘がいる。
 娘がいて、わたしは彼女に塞がれる。


 娘のなかに、わたしはもういない。或いは、まだいないのかもしれない。
 わたしは透明な硝子の壁に手前を塞がれる。
 手を広げると、わたしの手は硝子の前に透明に消え、わたしはわたしの(恐らくは)まだいない世界を眺めている。


 ――母の胎にいたときのことを憶えているような気がする。


 あなたは微かに小脇を向いて、窗〔クリスタ〕 のおもてに手をそっと当て、硝子のむこうにしんしんと降りはじめた青白い夕闇に伏し目を投げかける。
 その伏し目は窗の外に映ってゆき、暮れ始めた曇天のやや不穏な雲の斑〔まだら〕のなかに現れていた。
 空は今にも泣き出しそうな夕立の予感を姙んでうすぐろく膨〔は〕れ上がり、眼下にひくく見下ろされる街並は、闇とも湿気ともつかぬ青紫色のしずかな洪水のようにいつのまにか溢れてきた奇妙な空虚に既にすっかり沈み霞んで、その朧げな最後のかたちを見失おうとしていた。
 あなたの口から吐息が漏れ、それは微かに硝子のおもてを白く烟らせ、《言葉》となって広がった。


 一瞬、白く濛々と溢れてくる温泉の湯気のような濃霧の幻覚が娘の目を覆った。
 ひとつの真っ白な心がそこに全てを覆ってひろがり、世界は白い洪水のなかに消え失せていた。


 それは本当に一瞬のことだった。


 白い闇はあなたの声と変わり、娘の耳に続く――すると再び世界はその気配を取り戻した。
 けれども何かすっかり違った空気の色に塗り変えられてしまったように、世界がそっくり異次元の宇宙のなかに置き換えられてしまったように、以前とは違う自分自身の異質な感触のなかに震えていた。


 世界を微震させているのはあなたの声だった。
 その声は限りもなく遠い処から、不可思議な広がりをもって宇宙を包んでいるのだった。


 それは小声だった。
 けれども声の奥底に何とも形容しがたい魔力のようなものが響いていた。
 その響きは深い海溝の底からやってくるように思え、そして全世界が大地のうえに堅固に支えられているという感触を失い、まるで全てが不可視の洪水の海に揺れる不確かな方舟に運ばれているような奇妙な不安に凍え震えていた。
 あなたの小声の摩訶不思議な力によって。声に宿る冷たい熱によって。あなたは言った――。


 母の胎にいたときのことを憶えているような気がする……。
 うすぐらく、塩辛い羊水は、涙でできた苦い貯水池のようだった。
 ぼくは悲しみのプールのうわべを漫然と漂い、誰かの遠くから嘆く声を聴いていたんだ。


 そう、遠くで誰かが泣いている……。


 それがぼくの聴いた最初の意味をもった音声であり、最初に知った感情だったんだ。
 その感情に呼ばれて、ぼくはやってきた。
 ぼくは、ぼくに先立つその誰か見知らぬ人の死を贖わねばならない。そんな風に小さい頃から思っていた。


 小さい頃、誰がそれを教えたのだろう――ぼくは物心ついたときにはもう上の兄が死んだことを漠然と知っていたんだよ。


 兄さんは乳を喉に詰まらせて窒息したらしい――よくある事故なのだけれども、ぼくはその死因を聞き知ったとき、とても奇妙な気がしたんだ。
 乳を喉に詰まらせるというのは、見方を変えればこれは溺死だ――兄は乳の海、母なる海のなかに溺れ死んだのだよ。


 あなたはそこで言葉を途切らせた。


 娘は自分の息がひとつの静かな衝撃によって全く同時に途切られるのを感じた。
 声にならない叫びが、娘のなかで弾け、白い爆発を起こした。
 あなたの、苦悩を堪えた、厳しく張りつめた仮面のような男の貌が、言葉が途切れると共に、ふいに緩んで、亡き子を慈しむ聖母のような微笑みが広がり、目許が何ともいえない優しい黒い光に潤みかけていた。


 それは驚くべき変貌だった。
 あなたはすっかり全くの別人の相を見せたのだ。


 全てが覆われた。全てがあなたに覆われた。そのとき全てがあらわとなった。
 あなたがわたしに現れたのはそのときであった。
 そして、わたしが生まれたのも、おそらく、そのときであった。
 わたしはあなたの顔から生まれた。あなたがわたしに顕したあなたの異貌がわたしとなった。
 このとき、わたしは初めてわたしを見た。
 そのとき、娘はあなたにわたしを見た。
 とすれば、このわたしとは(恐ろしいことに)実にまさしくあなたに他ならないものなのだ。


 ……ことによると、そうなのかもしれない。
 だが、わたしにはまだ、その素晴らしすぎる異様な思想は耐え難い。


 このとき程、あなたが女であったときはない。
 あなたは女装も化粧もしてはいなかった。あなたは素顔のままであった。
 けれども普段の素顔以上に、このときのあなたの顔は隠れもなく素顔の素顔をあらわにしていたのだ。


 普段の顔はすべて仮面であった。
 仮面が卵のように割れ、青い光がそこから吹きこぼれ、いちめんを燈明のように明るく照らし出していた。この不思議な光をわたしは確かに見たと思う。青白い、とても神聖なオーラとも後光ともつかぬものがあなたの全身からつよく発散され、空気の色を、海のなかにでもいるように真っ青に塗り替えていた。


 溢れ出したのは、あなたの心であったのか、娘の魂であったのか。
 娘の心の白い爆発から激しく噴きこぼれる繁吹きがあった。
 またあなたから吹きこぼれ忽ちすべてを限りもなく優しく抱き取るような青い海もまた押し寄せてきていた。白い水と青い水は一瞬にしてひとつの大きな奔流となってすべてを押し流し、大きな渦巻きとなってすべてをその深みへと引き込んでいた。


 娘は忽然と不可思議な海底に連れ去られていた。バプテスマの深みへと。
 その深みのなかで、頭まで浄らかなオーラの青に浸かり、溺れるように深くまですっかり沈みながら、彼女はそのことばを、あなたのことばを、全き水に浸って聴いた。
 まるで頭上に一個の聖句が囁かれるようにして。


 「溺れ死んだ」ということばを。


 それはまさに神のことばであった。奇蹟の発言であった。
 娘はその短い生涯の最後のときまで、この素晴らしい瞬間を忘れることはなかった。

[承前]


【6】いかなる運命も偶然に発する。そして偶然が集積し、もはやただの偶然とは思われない不可思議な連鎖を作り出し、やがて一個の物語と化したとき、人はその物語的な必然性を畏怖と感嘆を込めた神秘の名「運命」をもって呼称する。

 〈運命〉とは何か。通俗的な、しかし真実の実感の籠もったその定義は、〈偶然から生まれた必然〉である。この定義は別に間違いではない。だが、それは非常に舌足らずであるように思われる。言わんとすることを、真にその最後まで言い得ていないのだ。わたしは更に一歩踏み込んで、こう言い切ってしまわねばならない。

 運命とは、もはやそこに偶然も必然も無いところのもの、むしろ不可能性の成就なのだ。運命とは、全くありえないものこそがそこにある、という奇蹟の創造の事件であり、だからこそ、運命の物語は人の魂を震撼させ、その心を強烈な感動で満たすのだ。

  *  *  *

 〈運命〉の観念の真相は、不可能性の様相のうちに全き仕方で現れる。それは、実は〈運命〉というものが、偶然性にも必然性にも還元不可能な、両者を完全に超越した次元にその思想の核心をもつということである。

 〈運命〉というこの比類なき形而上学的虚構は、不可能性を直視し、それを直接的に端的に肯定するものの前にしか、その奥義の処女なる姿を顕現させることはない。〈運命〉は、偶然か必然かの低次元な言葉の水掛け論に遊び戯れる者の手を滑り抜けるのは勿論のこと、それを大掛かりに偶然と必然の弁証法的綜合というような観念論的詐術で出来た蜃気楼のようなバベルの塔を積み上げて、その余りに高い天の秘密を暴こうとする賢しい企みをも、言葉を乱す混乱の風の魔法によって実に簡単に打ち破ってしまうものなのだ。

 〈運命〉は端緒において、たしかに不可思議な偶然の出来事として到来する。しかし、それをそのままただの偶然として見過ごしてしまうなら、それは大いなる運命には到らない。出来事をそもそも偶然として評価する者は、実はその時点で、運命という観念を〈ありえないもの〉として否定しているのである。運命を発見するためには、人は出来事を偶然と見てはならない。むしろそれを奇蹟として見出していなければならない。偶然の観念は、端的に出来事の奇蹟性の否定である。そのような精神の持ち主に、聖なるものは侵入しても、心の中にその透明な姿を捉えることはできない。

Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 3-13 そして全ては覆われる

[承前]



 インドでは龍の前後が逆になり、龍は阿修羅の大王として現れる。《龍の尾》にあたるものはラーフ・アスリンダという魔王の頭となる。もう一つ、《龍の頭》にあたるものはケートゥと呼ばれる暗黒の彗星で、それぞれ漢訳されて《羅喉》《計都》と呼ばれた。11世紀ペルシャのアル・ビールーニーの博物学書『インド誌』に次のような説明がある。


《龍の頭はラーフと呼ばれ、尾はケートゥである。インド人はその龍の頭だけを用い、尾について彼らが記録したものは少ない。いっぱんに天空に現れるすべての彗星(尾をもつ星)はケートゥと呼ばれる》

 古代インドでは専らラーフだけが蝕の原因とされた。このラーフの神話は様々なヴァリエーションがあるが、最も有名なのは、ヴィシュヌに退治されたという伝説である。


 それは《乳海撹拌》という壮大な物語の後日譚だ。天地が誕生して間もない頃のこと、デーヴァ(神々)とアスラ(阿修羅)の二つの種族の争いが絶えなかった。デーヴァたちは強大なアスラの力を恐れ、メール山(須弥山)に集まり陰謀を巡らせた。このとき神々の長ヴィシュヌは一計を案じた。デーヴァとアスラ両種族の力を総動員して不死の霊薬アムリタを作ろうではないかと。


 こうして壮大なスケールで《乳海撹拌》が行われた。全世界から植物と種子が材料として集められ、それを大海原にぶちこんで巨大な乳鉢とし、メール山の東に聳えるといい、またヴィシュヌ神の居住地でもあるマンダラ山を撹拌棒にして、ちょうど牛乳からバターを作る要領で掻き混ぜようというのだ。マンダラ山には縄のかわりにヴァースキという巨大な龍王を巻き付け、ヴィシュヌ自身はクールマという巨大な亀に化身して軸受けとなり、それをアスラとデーヴァが両側から引っ張ってグルグルかき回した。
 こうしてアムリタは出来たが、ヴィシュヌはこのとき美女の姿に化けてアスラたちを色気仕掛けで騙し、目の眩んだアスラたちはアムリタの分配を美女に委ねてしまい、せっかくの霊薬を奪われてその分配に預かれなかった。こうしてデーヴァのみが不死の生命をもつ神々となり、アスラは非神として死すべきものの地位に甘んじなければならなくなったという。
 だが、アスラ族のなかでただ一人、狡智に長けたラーフだけはデーヴァに化けてこっそりとアムリタの分け前に預かった。これにすぐに気づいたのが太陽神スーリヤと月神ソーマで、彼らの密告を聞き付けたヴィシュヌはすぐさまチャクラの円盤を投げ付けて、ラーフの首を断ち切った。だがすでにアムリタを飲み込んでいたラーフは首から上だけが不死であったために生き延び、太陽と月を恨んで日月蝕を起こすようになったという。 最初、ケートゥは特にこのラーフとは結び付けられてはいなかった。しかし、西からヘレニズムの影響とともにに蝕を引き起こすドラゴンの神話が伝播してくると、いつしかインド人はケートゥをラーフの尾の部分だと考えるようになった。


 ※ところで、《龍の頭》をラーフとし、一方、ケートゥを《龍の尾》とする別説もある。更に、ケートゥを寧ろ月の遠地点とする解釈が『七曜攘災決』を根拠に可能になるという興味深い指摘が矢野通雄博士によってなされている。なお、同氏によればラーフは《龍の頭》つまり月の昇交点に等しい。矢野氏は『七曜攘災決』に記載されているラーフとケートゥの周期を紹介している。それによれば、ラーフは九三年で五周天し、ケートゥは六二年で七周天するという。(著者記)


 ラーフとケートゥは仏教占星術に取り込まれ、中国に伝えられて、『宿曜経』に続く『七曜攘災決』や『九執暦』に《羅喉》《計都》として現れる。今日、密教占星術として知られているものだが、このとき、中国に古来からある別系統の占星術、陰陽道の伝承が流れ込み、習合することになった。


 陰陽道のいう八将軍は中国起源の鬼神、そのうち黄幡神が羅喉と、豹尾神が計都と同一視されていった。《黄幡》《豹尾》ともに皆既日蝕のときに現れる太陽のコロナが、黄色い旗がはためくさまや豹の尻尾が靡くさまに似通うことからつけられた名前である。


 豹尾神はその名の通り、獰猛な豹のごとき性質をもち、恐るべき祟り神で、また、その方角に尾のある生き物を求めると伝えられている。
 だが、これよりも恐れられたのはやはり黄幡神であったようだ。その神の巡ってくる方角に家や門を建てれば大災厄を齎すといわれ、またこの黄幡星の見えるとき、つまり皆既日蝕のときには世界に凶事が走って騒然とし、この星の元に生まれた子供は、黄幡神の化身として世に害をなすとして恐れられたという。…… 確かにあなたは不吉な黄幡の徴の真下に生をうけてしまったのかもしれない。


 だが、一方、西洋占星術は別のことも告げている筈だ。そもそも日蝕のような天体現象だけで吉凶の徴とするような考えはキリスト紀元前七百年頃の古臭い占星術で、今はもう廃れている。そもそもそれをインドに齎したのはアレクサンダーの遠征だった。それがそのまま中国に、それから日本に伝えられただけの話ではないか。


 皆既日食の生まれであるとは、あなたはつまり新月のときに生まれた筈、だとすれば、運勢の上下は激しいが幸運な人であるはずだ。わたしはあなたの日蝕が、龍の頭と尾のどちらで起こったかを知らない。もし《龍の頭》で起こったのであれば、あなたは必ずや人望を集め、そして自らも努力家で向上心のある人である筈だ。またもし《龍の尾》でそれが起こったとすれば、やや不運なことに己れの弱さを隠そうとして周囲の協力を失いやすい傾向があるというが、それでもあなたは真実の人である。これは太陽と《龍の尾》の合(コンジャンクション)の場合が告げる一般的な出生天球図の暗示だ。


 いずれにせよ、あなたが世界に凶事を齎す不吉な存在だという暗示はない。


 寧ろわたしはあなたを乗せてきた偉大な象の徴を信じたい。
 象は以前に仏陀を齎したように、神の子の乗り物にこそふさわしい聖獣だ。


 《象》――Ele-phantとは、まるで《神(エル)が光の中に現れた》とでもいうかのような不思議な語ではないだろうか。それ自身、《神の啓示》を象徴するしるしではないだろうか。


 象が現れる――そうだ、わたしはファイネスタイというギリシャ語について森アキラから教わったことがある。
 現象を意味するその語と自然を意味するフュシス、それにそう、ファントム・ファンタジー・エレファントにも共通のphantという語根は、どれも元々《自らを示す》というファイネスタイから派生した語だとか……確か森はそんなことを言っていたことがある。


 象が現れる――まさしく《現象》ではないだろうか。それはつまり、神が御自らを示されたという徴ではないだろうか。


 しかし、神がそこで御自らを示される場処で、神は御自らを掩い祕されてしまう。象の徴のもとに演じられた《現象(phenomenon)》は、《掩蔽》 ――occultation/eclipse――《星蝕》という天文現象であり、「隠す」或いは「覆う」という出来事に他ならないからだ。

Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 3-12 サロメの手中に揺れる問い

[承前]


 では、逸脱するがままに任せよう。無為にして成る。その通り、どこに何が転がっているか分からない。この世界には思わぬところに神秘な伏線が張り巡らされているものなのだ。変な袋小路だと思っていたところにあっといわせるような曲がり角が潜んでいて、それまで無駄な戯言だと思っていたものが後で解明の手懸かりになる。どんなに小さな星屑と見えても、宇宙の秩序に不可思議な結び付きを秘め、巨大な星に目配せを送っているかもしれない。寧ろ一層、先を急がず、何一つ見落とさないようにゆっくり回ってゆくのが常に最善の道なのだ。わたしは必ずあなたの顔の処に戻るだろう。そう、あなたがまさに《神》であるが故に、わたしは大きな弧を描いてゆかなければあなたの顔の前に辿りつけない仕組みになっているものらしい。


 わたしは預言者ヨハネの首をもつサロメのように、その不可思議な双面神〔ヤヌス〕の頭部を右と左の両手で捧げもち、彼の――それとも彼女の?――首を回しながら、この神の性のいずれであるのかを不安げに問いかける。
 しかし、瞑目し、その瞼の下に己れの真実を秘めて明かさぬ首は何も語らぬ。
 わたしはあなたにくちづけしたいのに、あなたはどちらの貌をもわたしに差し出してはくれない。
 わたしの手の中で、天球儀は回りながら、その軸受けを微かにぐらつかせ、この僅かなぐらつきのなかで、神の首は小さな《否(ノン)》をいうように横に振られ続けている。
 ぐらつき、今にも倒れそうな独楽の輪舞のように。


 独楽のこの僅かに頭を揺する動きは、《章動》と呼ばれ、地球の地軸、極の小さな揺れとなって観測される。北極――ヒュペルボリアの土地を微かに揺さぶるものは、主として月(アルテミス)の引力であるといわれる。


 月は地球以外の天体(特に太陽)からの引力を受けるので、固定した楕円軌道を描くことはせず、その回転は楕円から少しずつズレてゆく。このズレが地球へと伝えられて《章動》となる。
 その周期は18.6年、つまりおおよそ19年の周期となる。


 古代中国人は、19年間に7日の閏日を設ける太陰太陽暦を作った。
 そこで19年の周期を《1章》と呼び、この暦の根幹をなす一九年七閏の基本定式を《章法》と名付けた。《章動》の語はこれに由来する。


 この暦は、本来無関係で通約不能な筈の、月と太陽の齎す別々の現象をひとつに結合させようとした努力の成果であった。
 暦の一月〔ひとつき〕を齎すのは元々月の満ち欠け(朔望)である。
 一方、太陽の齎すのは四季と更に細かくは二十四の節気の変化である。これが《季節》である。
 この両者を結び付けて《一年》という統一体を古代人は掴まえようとしていたのだ。


 ところがこの《一年》の内部には解消不可能な小さなズレの綻びがある。
 《章動》の僅かな微動は次第次第に《一年》の内側に無気味な亀裂を広げてゆく。
 そこでは二つの暦がそれぞれ別の一年を勝手に描き始め、《一年》は自己分裂の危機に陥ってしまうのだ。


 つまり季節を忠実に数えようとする太陽暦と、月の満ち欠けを忠実に数えようとする太陰暦が齟齬をきたし、《一年》それ自身の回転軸を脱臼させ、地球は月と太陽の間の不和の真空に宙吊りとなり、時の混乱の海のなかに危うく漂流する宇宙の永遠の闇の迷い子となりかねなかったのだ。


 太陽と月は天球上に別々の経路を描く。


 太陽の径は黄道(ecliptic)といわれ、天の赤道(equator)との交点である分点(equinox)と最遠点である夏冬至点(solistice)によって、四季を定める四つの日(春分・夏至・秋分・冬至)を生み出す。


 一方、月の径は、その名の通り、英語では moon's path、和名では白道と呼ばれる。月はこの白道を一巡しながらおよそ二十八日で満ち欠けの一周期を結ぶ。
 しかし、この月の周期自体が実は二重である。正確に月が地球を三六〇度回る公転周期は《恒星月〔サイデリアルマンス〕》といわれ、二七・三二日。太陽に対して月が天球を一周する周期-つまり新月から次の新月までの正確な周期は《朔望月〔セナディックマンス〕》といわれ、二九・五三日。この間には微妙なズレが存在する。


 古代人は言うまでもなく、朔望月をもって一月の単位とした。月の満ち欠けする形象の変化は、何よりも目を引くものであったのだから。また満ち欠けの現象のより大いなるもの-日蝕と月蝕にも彼らは敏感であった。


 日月蝕(eclipse)は、当然のことながら、太陽と月の出会う処、つまり黄道と白道の交点の付近で起こる。この特別な交差点――昇交点〔アセンデイングノード〕と降交点〔ディセンディングノード〕の二つの《節〔ノード〕》 を、西洋占星術では古くからそれぞれ《龍の頭〔カプトドラコニス〕》・《龍の尾〔カウダドラコニス〕》と呼んで重視していた。
 太陽や月を呑みこむ暗黒の、不可視の巨大な龍を古代の人々は天空に想像したのだ。
 このふたつの《月節》は、実在の星ではないが疑似天体(イマジナリー・プラネット)と考えられた。


 カルデア人は更に、この《蝕》の闇を齎す幻の月を考えた。
 もうひとつの闇の月、月の影ともいわれるこの想像上の天体は、やがて《リリス》の不吉な名で呼ばれ、今も占星術の一部に生き延びている。


 リリスはイヴに先立つ真に最初の女、アダムの最初の妻であったが、アダムと神に逆らい、魔王サマエルの妻となった魔女。エデンの蛇になったのは彼女だったとも、また最初の殺人者カインはリリスの子供だったともいい、数々の伝承伝説には事欠かない不思議な存在。中世では夢魔、吸血鬼として恐れられた無気味な女だ。


 疑似天体(一部の占星学の書物では未発見天体としている)としてのリリスは《前世》を司る。その記号は《φ》。太陽が《龍の頭》に回帰する一食年で三回天球を巡るのだという。だから、リリスの周期はおよそ119日。


 太陽と月を食べる魔物の話は世界の神話のいたるところに見いだされる。
 日本ではスサノオがそれに当たる。スサノオは姉のアマテラスを天之岩戸に封じ込め、世界に暗黒を齎す。北欧では一層恐ろしく、《狼》であると考えられた。


 世の終わりに先立ち、二頭の狼が、太陽と月に追いついて彼らを食べてしまう。そして、最も恐ろしい狼フェンリルまたはヘンリーは、天空神オーディンを呑みこむというが、これはイメージの同語反復に過ぎない。オーディン自身がその両目によって太陽と月を意味しているものだからだ。

Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 3-11 すべての男女は星である

[承前]


 イーシャーナとアダム・カドモンの観念は非常に類似する。
 だが、カバリストが無理やり六日目に創造された人類を単数形で捉えようとするのには、無理やりであるからにはやはり無理があるのは否めない。


 楽園追放の後、アダムとイヴは最初の二人の子孫を生む。
 カインとアベルで、カバリストの解釈が本当なら、そのとき地上にはこの四人家族しかいなかった筈。ところがカインはアベルを殺した罪が発覚すると、その呪われた身を見た誰でも自分を殺そうとするのではないかと恐れおののき、神から保護の徴を頂く。
 まさしく異民族が、創造の六日目に生まれたイーシャーナの人類が別にいたのだ。
 そしてカインはその後、何処からきたのか定かではない妻と結婚し、エノクという街を建設している。街というからには既に大勢の人間が存在していなければおかしい。


 つまり神は人間を二種類に分けて創造したのに違いない。
 エデンのアダムの子孫を自認する人々にとっては屈辱的な解釈かもしれないが、六日目に支配者となるべき、神々そっくりの優等な人類が地に満ち溢れ、七日目以降、一人の神が自分の奴隷とすべく適当に土を捏ねて作ったエデンのアダムが後から仕えるために作られたというひどい話が実際には書かれているのだ。
 聖書の編纂者がわざわざ矛盾した記述を併記していることの裏側にはそうした解釈を自然に誘おうという意図があったのかもしれない。恐らくこの編纂者はヘブライ人ではないだろう。聖書を使って、アダムの子孫といわれる人々をヤハウェ神の権威を借りて支配しようとした異民族の王か祭官であったのかもしれない。


 七日目の天地創造についての記述は、アダムの系図の書にそのまま続くのが自然だ。
 その冒頭部は《エロヒームはアダムを創造された日、エロヒームに似せてこれを造られ、男性と女性に創造された。創造の日に彼らを祝福されて人(アダム)と名付けられた。アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた》となっており、すらりと続いていって矛盾はない。


 エデンからカインの殺人、カインの系図、それからアダムとイヴの間に第三子セトが誕生するまでのくだりは、無理やり末尾をこじつけて、アダムの系図の手前に後から挿入したという感を拭えない。
 カインとアベルの兄弟の名前はアダムの系図には見えない。
 セトは恐らく無理やりに第三子に貶められたのである。
 この挿入箇所の神名はヤハウェまたはヤハウェ・エロヒームで、ただ一か所エロヒームと出てくるのはセトの誕生の箇所であり、帳尻合わせの感を却って強めている。


 《彼の名をセトと名付けた。カインがアベルを殺したので、エロヒームが彼に代わる子を授け(シャト)られたからである》


 そしてそのすぐ後に、何か慌てて言い訳を付け加えるようにして、次のように書かれてこの挿入部分らしきものは終わる。


 《セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。ヤハウェの名を呼び始めたのは、この時代のことである》


 ヤハウェにアダムの子孫を無理やり従わせようとした人々は、ヤハウェ・エロヒームとわざわざ記すことで本当は、神々(エロヒーム)を信じていた人々に、《神々の一人である偉大なヤハウェ》として、ヤハウェの名前を権威づけつつ、彼らが他の民族とは違って、奴隷として特に作られたことを信じ込ませようとしたのではないだろうか。
 そこでカインの系図まで捏造した。この系図は暴力的な人物レメクの名前を最後の行に掲げて終わるが、アダムの系図の終わりにノアの父として出てくる人物もレメクである。(洪水の話からは神名は再びヤハウェになる。)ノアの父のレメクは七七七歳まで生きる。このアダムの系図のレメクは、ヤハウェ支配に対する愚痴めいた台詞を吐く。


《ヤハウェの呪いを受けた大地で働く我々の苦労をこの子は慰めてくれるだろう》

 そういって生まれた子供にノア(慰め)と名付けた。ところがカインの子孫のレメクは《カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍》と歌う悪人である。


 この七という数字の仄めかしによって、二人のレメクが同一人物であることが陰険に暗示されている。


 おそらくノアの尊敬されたであろう父親を貶める意図があったのではないか。
 現実のレメクはヤハウェを戴く連中の圧政に抵抗した立派な人物だったのかもしれない。
 支配者にとって実に目障りな人物だったのかもしれない。


 またアダムの系図中、最も神聖な人物はエノクだ。
 彼はエロヒームと共に歩み、生きたまま天に上ったことになっている。
 このエノクもまた同じ操作を蒙っている。罪人カインの息子の名前に織り込まれてしまっているのだ。


 人間を支配階級と被支配階級の二種類に分けて創造するという差別的な神話には例がない訳ではない。中国の神話に蛇身人頭のジョカという女神が出てくる。
 彼女は人類を創造する際に、最初は黄土を捏ねて丁寧に一体一体作っていたが、やがてこれでは埒が明かないと踏むと、やがて縄を泥に浸し、引き上げた縄から滴り落ちる泥によって一度に何人もの人間を作るという手抜きの大量生産に切り替えたという。それでもまだ追いつかないので結婚の制度を作り、人間たちが自分で増えてゆくようにした。このため、人間には最初から出来の良い者と出来損ないが、つまり支配者と被支配者の二種類ができあがったと説明されているのである。


 カバリストたちは、しかし、そうした説を採る訳がなかった。
 エデンからの追放の後、アダムの系図の冒頭部で、またしても、天地創造の記述とそっくりの《男性と女性に創造された》という箇所がフィードバックしてきたとき、彼らはエデンでの創造と再び食い違う記述の矛盾を埋めようとして、この箇所における《エロヒームがアダムをエロヒームの似姿で造った》という文のなかで使われている語句《似姿》(デムート)と《造った》(アサー)に注目する。
 これはベリアーの段階での《像》(ツェレム)を用いた《創造》(ベリアー)とは微妙に違う行為で、しかも《形成》(イェツィラー)の後の段階で行われているものであるとし、この創造を《造営》(アッシャー)と名付け、これを例の女(イシャー)の創造の段階に位置付けた。
 まさしくそこで神は女を造ったときにこの《造営》を意味する語を用いていたのである。
 そこで、《創造》《形成》《造営》の都合三段階の創造行為があったことになる。この上に、カバリストたちは、新プラトン主義のプロティノスの影響を受け、更に《流出》(アツィルト)という段階を《創造》(ベリアー)の前に持ってきた。
 カバラはこうして天地創造を四段階創造説として完成し、やがて、それぞれの段階に応じて《流出界〔アツィルト〕》・《創造界〔ベリアー〕》・《形成界〔イェツィラー〕》・《造営 界〔アッシャー〕》の四つの世界〔オラーム〕、四つの存在の次元を考えるようになっていった。


  *  *  *


 さて、わたしのこのLとRを巡ってかなりいい加減に始まったこの胡乱な考察も思わぬ処にまで脱線して、まさかこのわたしがカバラの創造説の四段活用の講義までやらされる羽目になるとは思ってもみなかったが、そろそろ軌道を修正して元のLとRの近くまで戻ってゆきたい気にはなる。


 けれども、どうやらわたしが踏み込んでしまったこの軌道は、わたしが考えていた以上に壮大な弧を大宇宙に巡らせているものらしい。途方もない逸脱と見えながら、どうやらこの思考の軌道はゆるやかなカーブを描いて実は元の場処に繋がり戻ってゆこうとしている。聖書の冒頭への逸脱? ――いいや、そう考えるのは余りにも早計というものだ。


 それにもかかわらず、わたしは今まだ、神話界きってのダンスの名手・舞踏王〔ナトラージュ〕シヴァとその后カーリーのステップの間にいるに過ぎない。ふたりは相変わらずRとLの真上で踊り続けているのだ。存在の大いなる連鎖は途切れてはいない。わたしは男と女について考えていたのだから、アダムとイヴにまで遡ることも決して主題からの逸脱ではない。
 カバラに足を突っ込む羽目になったのもアダムとイヴ、男と女の問題がそれ程に大きいからなのだ。どうやら、男女の問題というのは、元々途方もなく遠大でコスミックな話になる性質のものなのかもしれない。


 そら、魔術師のクロウリーさんもそうだそうだと言ってる。《すべての男女は星である》と。

Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 3-10 エデンの奴隷と風の巨人

[承前]


 第二のアダムが土の塵から作られたとき、彼は一人だったし、与えられたのもエデンという小さな園に過ぎなかった。造られた動機も《土を耕す》という労働に従事させるためであって、楽園といわれるエデンでアダムというのは要するに農奴であり、隷属者に過ぎなかった。


 創造の七日目以降に作られた彼は、どうみても六日目に作られたアダムとは同一人物ではない。

 六日目に生まれた人間または人類は、はっきりと《支配させるために》作られたと書かれている。

 支配階級となるべき民族と被支配階級となるべき民族を神は別々の日に作ったのかもしれない。

 最初のアダムは初めから、エロヒームつまり神というよりは神々の像に合わせて――初めから神のように作られ、支配の運命を定められた。これに対してエデンのアダムは単に土を捏ねて作られただけの不格好な代物で、一行も彼については《神の像にかたどって》作られたとは書かれていない。


 このエデンの男は、神のようになるためには蛇の助けを借りて禁断の果実を食べなければならない隷民で、しかもこの咎のために神に呪われ、追放されてしまう。

 全く六日目に創造されたアダムとは対照的な扱いなのだ。


 その彼らは祝福されて広々とした世界へと出発する。《彼ら》と複数形で言うのは、彼らを送り出す神の次の言葉から見ても六日目のアダムが単に一人だったとは考えにくいからであるし、また既に見てきた《男と女に創造された》箇所でも複数形の『彼ら』という語が使われているからである。


 《産めよ、増えよ、地に満ちよ、そして地を征服せよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべてを支配せよ》


 しかし、カバリストたちはこの《男と女に創造された》支配者の人々とエデンの孤独なアダムとを同一人物と考えるために、プラトンの考え出した原人アントロポースの伝説を援用し、創造の第六日目のアダムを(これをアダム・カドモンと彼らは呼んだ)両性具有・雌雄同体のアンドロギュノスであったと考えた。

 実際その箇所で用いられた語が、既にみたように雌雄を意味するに過ぎない語だったことがその根拠となる。男/女と言えば、それは立派に別々の人格的存在を意味してしまう。


 このアダムは七日以降にもう一度土の塵から生み出されるが、それはいわば身体を獲得するといった程度の意味となった。そしてこのときのアダムもやはり雌雄同体であった。肋骨摘出によって神は彼の雌の部分を取り出し、女として独立させた。だからこのとき初めて、男(イシュ)/女(イシャー)が一人の人間(アダム)から別れ出て誕生するのだ。


 それは、まるで一人の神シヴァ=イーシャーナ(伊舎那天)から伊邪那岐・伊邪那美の二柱の神(命(ミコト〕)が別れ出てくるかのような魔法である。逆に言えば、原初の支配者〔イシャーナ〕たるシヴァ=アダム・カドモンのなかに伊邪那岐・伊邪那美という男と女は全く内在していたといってもよいのかもしれない。


 カバリストたちはあくまでも六日目と七日目以降の創造を連続した一人のアダムの段階的創造として捉えるために、六日目に於いて、既に全地に満ち、全地を征服し、全てを支配していた原初のアダム・カドモンは、たったひとりで宇宙全体を覆い尽くすような巨人だったと考えた。

 この状態はまさしくイーシャーナと呼ばれるときのシヴァの姿に合致する。
 というのはイーシャーナとは空間に広がって全てを包み、育む空気としてのシヴァの働きを特に表現した言葉であるのだから。

 『シュヴェータシュヴァタラ・ウパニシャッド』に次のように述べられている。


 《ルドラ神よ。慈悲深い顔付きで祭官を御覧になっていて下さい。人々に危害を加えるようなことはなさらないで下さい。最高のブラフマンが支配者(イーシャ)であり、それはあらゆるもののなかでもっとも偉大で、あらゆる姿をした万物の内に住み、全宇宙を包みこんでいるのだ、と知って、人々は不死となるのである》


 《願いをかなえてくれる神イーシャーナが子宮をすべて支配しており、万物はこの神から生じ、この神のなかに存するのだと知れば、人は永遠の安息・平安を得ることができる》

Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 3-9 アダムの肋骨と神の影

[承前]



 イーシャーナまたはイーシャというこの《支配者》を意味する梵語は、イエスの名前イェヘシュアを一瞬不可思議な共鳴に連れ込みながら、その震えをもっと古くへと溯らせる。それはヘブライ語で男及び女を意味するイシュ及びイシャーの語を震わせるアダムの最初の発声、最初の詩〔うた〕のところへとわたしを連れてゆく。


 そこは、ヤハウェ・エロヒームの手による女の創造に関する記述の箇所。
 ヘブライ語原典に即して読んでゆくなら、神はアダムを《深い眠りの上に》落とす。
 その眠りの上にまるで別の眠りを重ねるように、眠りそのものを自らの寝床に敷くようにして、アダムは眠る。


 この不思議な二重の眠りのなかで、肋骨(ツェラー)の摘出と縫合の手術がなされ、最初の女が創造される。禁断の果実を摘み楽園追放が決定するまでイヴ(ハヴァ/命)と呼ばれることなくただ無名の《女》としか呼ばれることのなかった彼の妻を、《女》(イシャー)という無名の名前でアダムは名付ける。


 《ついに、これこそ、わたしの骨からの骨、わたしの肉からの肉、これをイシャー(女)と呼ぼう、まさにイシュ(男)から取られたものだから》


 アダムはいつ目覚めてその女を見たのか? 
 『創世記』はアダムの眠りについて述べるばかりでその目覚めについては一行も記述してはいない。まるで禁断の果実を食べて《目が開ける》までは彼はずっと夢を見ていたかのように。


 この不可思議な書物『創世記』。
 既に人(アダム)の創造にしてからが重複し互いに微かに齟齬する三つの記述に分断されている。
 この女の創造はその三つの最後のものだ。

 既に天地創造の第六日目に人類は創造されている。
 エロヒームは、海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべての、そう、実に《支配者》(イーシャーナ)としてアダムを創造した。このアダムはこのとき男性と女性に創造された。
 それは女(イシャー)の創造に遥かに先んずる。

 だがこの箇所にはイシュ/イシャーの語は用いられていない。男性はザハル、女性はネケヴァーとなっている。これは男と女というより寧ろ雄と雌という動物的なニュアンスのより強い語だ。
 また、ザハルと同綴の別の語ゼーヘルは記憶・記念・思い出を意味し、この名詞の元になった動詞ザーハルは発音もザハル(ザーハールという方がより正確だろう)に非常に近く、「記憶する」「思い出す」の意。ネケヴァーは《穴》、それも小さな穴を意味するネケヴから露骨に派生した語であり、女性生殖器から連想された言葉で、全く同じ綴りのニケバーは、地下道・トンネルを意味する。そこから埋葬されるという意味の動詞ニケバルにも関連する。
 だから《男と女に……》とさりげなく書かれているこの箇所を、一瞬、われわれが全てそこから出て来た大地の女神の暗い穴の記憶がふわりと横切っているのだ。


 『創世記』は語る――《エロヒームはアダムを自分の像に[かたどって]創造した、それをエロヒームの像に[かたどって]創造した。男性と女性に彼らを創造した》。


 ここで人類はただ《神の像》によって創造されたのであり、後に見るように土の塵から形づくられたものではなかった。

 ユダヤのカバリストたちは、神が二度もアダムを作ったというこの記述の矛盾を解決するために、最初のアダムを《創造界のアダム》と呼び、後のアダムを《形成界のアダム》として区別したが、それは聖書に用いられた《創造する》《形成する》という二つの動詞の違いに着目することによってなされた。
 最初の創造はベリアーと呼ばれ、ここで神は人間のイデア的な原型を作ったのだと考えられた。

 《自分の像に、エロヒームの像に》(ベツァルモー・ベツェレム・エロヒーム)という箇所に現れるツェレム(ЦLM)という語は、影や暗黒というやや陰りを帯びた意味を持つツェール(ЦL)の派生語で、「十字架につける・磔刑にする」(ЦLK)だの「火炙りにする」(ЦLH)だの物騒であると共に、意味深長な他の語と親戚関係にある。キリスト教における犠牲《磔刑crucifixion》の象徴である《十字架》はツェラーヴ(ЦLB)として、まさにこの神の影ツェールの影に覆われている。
 更に、全焼の生贄を捧げるという場合の《燔祭》はオラー(OLH)だが、この語も「火炙りにする」(ツァラーЦLH)に意味からもまたその頭文字の紛らわしいかたち(※脚注)からも深く結ばれている。
 物騒さついでに挙げるとツァラフという動詞は《狙撃》を意味する。
 またアダムの例の肋骨もツェラーといってツェールの影のもとにある。
 ツェレムと全く同綴の動詞にツィレムというのがあり、これは今日「写真を撮る・コピーする」という意味で用いられる。その《焼き付ける影》という連想のなかに、《燔祭》と《影》のイメージがダブる言葉だ。
 カバリストたちは、神の像(ツェレム)の語のもう一つの意味である《流し込む型/鋳型》のイメージを読み込んだ。
 神はこのとき己れの姿を今日の言葉でいえばコピーし、このコピーを引き続くイェツィラーの段階での人間の創造の鋳型に用いたと彼らは考えたのだ。
 次のアダムはだからコピーのコピーである。


 無論そこには明らかにプラトンの影響がある。ベリアーでイデアが、人間の理念的形象が創造され、イェツィラーでは神はこのイデア的な範型に基づいて、まさにギリシャの工匠デミウルゴスよろしく人間の物質的肉体を土の塵から捏ね上げて作ったという訳だ。
 それは手本を真似ての創造であり、明らかに最初の創造に比べて見劣りがする。


 グノーシス主義者たちは、そこにつけこんで、このデミウルゴスに落ちぶれた第二の神を不完全な神として軽蔑し、最初に人間を己れの《像》から作った神に憧れた。


【脚注】
※ここではヘブライ文字のアインをO、ツァダイをロシア文字で字形も発音もよく似たЦで転字しているが、原字のアインとツァダイは文字形がよく似ている。残念ながらここではヘブライ文字を記入しても思うように表示できないので、元原稿に多用されているヘブライ語の挿入箇所は転字表記に置き換えるか、思い切って削除している。ヘブライ表記のところだけイメージを使うという手もなくはないが、レイアウトを崩さないようにそれをやるのは困難であり、またいちいちやっていられないので、御容赦願いたい。