Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 3-11 すべての男女は星である

[承前]


 イーシャーナとアダム・カドモンの観念は非常に類似する。
 だが、カバリストが無理やり六日目に創造された人類を単数形で捉えようとするのには、無理やりであるからにはやはり無理があるのは否めない。


 楽園追放の後、アダムとイヴは最初の二人の子孫を生む。
 カインとアベルで、カバリストの解釈が本当なら、そのとき地上にはこの四人家族しかいなかった筈。ところがカインはアベルを殺した罪が発覚すると、その呪われた身を見た誰でも自分を殺そうとするのではないかと恐れおののき、神から保護の徴を頂く。
 まさしく異民族が、創造の六日目に生まれたイーシャーナの人類が別にいたのだ。
 そしてカインはその後、何処からきたのか定かではない妻と結婚し、エノクという街を建設している。街というからには既に大勢の人間が存在していなければおかしい。


 つまり神は人間を二種類に分けて創造したのに違いない。
 エデンのアダムの子孫を自認する人々にとっては屈辱的な解釈かもしれないが、六日目に支配者となるべき、神々そっくりの優等な人類が地に満ち溢れ、七日目以降、一人の神が自分の奴隷とすべく適当に土を捏ねて作ったエデンのアダムが後から仕えるために作られたというひどい話が実際には書かれているのだ。
 聖書の編纂者がわざわざ矛盾した記述を併記していることの裏側にはそうした解釈を自然に誘おうという意図があったのかもしれない。恐らくこの編纂者はヘブライ人ではないだろう。聖書を使って、アダムの子孫といわれる人々をヤハウェ神の権威を借りて支配しようとした異民族の王か祭官であったのかもしれない。


 七日目の天地創造についての記述は、アダムの系図の書にそのまま続くのが自然だ。
 その冒頭部は《エロヒームはアダムを創造された日、エロヒームに似せてこれを造られ、男性と女性に創造された。創造の日に彼らを祝福されて人(アダム)と名付けられた。アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた》となっており、すらりと続いていって矛盾はない。


 エデンからカインの殺人、カインの系図、それからアダムとイヴの間に第三子セトが誕生するまでのくだりは、無理やり末尾をこじつけて、アダムの系図の手前に後から挿入したという感を拭えない。
 カインとアベルの兄弟の名前はアダムの系図には見えない。
 セトは恐らく無理やりに第三子に貶められたのである。
 この挿入箇所の神名はヤハウェまたはヤハウェ・エロヒームで、ただ一か所エロヒームと出てくるのはセトの誕生の箇所であり、帳尻合わせの感を却って強めている。


 《彼の名をセトと名付けた。カインがアベルを殺したので、エロヒームが彼に代わる子を授け(シャト)られたからである》


 そしてそのすぐ後に、何か慌てて言い訳を付け加えるようにして、次のように書かれてこの挿入部分らしきものは終わる。


 《セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。ヤハウェの名を呼び始めたのは、この時代のことである》


 ヤハウェにアダムの子孫を無理やり従わせようとした人々は、ヤハウェ・エロヒームとわざわざ記すことで本当は、神々(エロヒーム)を信じていた人々に、《神々の一人である偉大なヤハウェ》として、ヤハウェの名前を権威づけつつ、彼らが他の民族とは違って、奴隷として特に作られたことを信じ込ませようとしたのではないだろうか。
 そこでカインの系図まで捏造した。この系図は暴力的な人物レメクの名前を最後の行に掲げて終わるが、アダムの系図の終わりにノアの父として出てくる人物もレメクである。(洪水の話からは神名は再びヤハウェになる。)ノアの父のレメクは七七七歳まで生きる。このアダムの系図のレメクは、ヤハウェ支配に対する愚痴めいた台詞を吐く。


《ヤハウェの呪いを受けた大地で働く我々の苦労をこの子は慰めてくれるだろう》

 そういって生まれた子供にノア(慰め)と名付けた。ところがカインの子孫のレメクは《カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍》と歌う悪人である。


 この七という数字の仄めかしによって、二人のレメクが同一人物であることが陰険に暗示されている。


 おそらくノアの尊敬されたであろう父親を貶める意図があったのではないか。
 現実のレメクはヤハウェを戴く連中の圧政に抵抗した立派な人物だったのかもしれない。
 支配者にとって実に目障りな人物だったのかもしれない。


 またアダムの系図中、最も神聖な人物はエノクだ。
 彼はエロヒームと共に歩み、生きたまま天に上ったことになっている。
 このエノクもまた同じ操作を蒙っている。罪人カインの息子の名前に織り込まれてしまっているのだ。


 人間を支配階級と被支配階級の二種類に分けて創造するという差別的な神話には例がない訳ではない。中国の神話に蛇身人頭のジョカという女神が出てくる。
 彼女は人類を創造する際に、最初は黄土を捏ねて丁寧に一体一体作っていたが、やがてこれでは埒が明かないと踏むと、やがて縄を泥に浸し、引き上げた縄から滴り落ちる泥によって一度に何人もの人間を作るという手抜きの大量生産に切り替えたという。それでもまだ追いつかないので結婚の制度を作り、人間たちが自分で増えてゆくようにした。このため、人間には最初から出来の良い者と出来損ないが、つまり支配者と被支配者の二種類ができあがったと説明されているのである。


 カバリストたちは、しかし、そうした説を採る訳がなかった。
 エデンからの追放の後、アダムの系図の冒頭部で、またしても、天地創造の記述とそっくりの《男性と女性に創造された》という箇所がフィードバックしてきたとき、彼らはエデンでの創造と再び食い違う記述の矛盾を埋めようとして、この箇所における《エロヒームがアダムをエロヒームの似姿で造った》という文のなかで使われている語句《似姿》(デムート)と《造った》(アサー)に注目する。
 これはベリアーの段階での《像》(ツェレム)を用いた《創造》(ベリアー)とは微妙に違う行為で、しかも《形成》(イェツィラー)の後の段階で行われているものであるとし、この創造を《造営》(アッシャー)と名付け、これを例の女(イシャー)の創造の段階に位置付けた。
 まさしくそこで神は女を造ったときにこの《造営》を意味する語を用いていたのである。
 そこで、《創造》《形成》《造営》の都合三段階の創造行為があったことになる。この上に、カバリストたちは、新プラトン主義のプロティノスの影響を受け、更に《流出》(アツィルト)という段階を《創造》(ベリアー)の前に持ってきた。
 カバラはこうして天地創造を四段階創造説として完成し、やがて、それぞれの段階に応じて《流出界〔アツィルト〕》・《創造界〔ベリアー〕》・《形成界〔イェツィラー〕》・《造営 界〔アッシャー〕》の四つの世界〔オラーム〕、四つの存在の次元を考えるようになっていった。


  *  *  *


 さて、わたしのこのLとRを巡ってかなりいい加減に始まったこの胡乱な考察も思わぬ処にまで脱線して、まさかこのわたしがカバラの創造説の四段活用の講義までやらされる羽目になるとは思ってもみなかったが、そろそろ軌道を修正して元のLとRの近くまで戻ってゆきたい気にはなる。


 けれども、どうやらわたしが踏み込んでしまったこの軌道は、わたしが考えていた以上に壮大な弧を大宇宙に巡らせているものらしい。途方もない逸脱と見えながら、どうやらこの思考の軌道はゆるやかなカーブを描いて実は元の場処に繋がり戻ってゆこうとしている。聖書の冒頭への逸脱? ――いいや、そう考えるのは余りにも早計というものだ。


 それにもかかわらず、わたしは今まだ、神話界きってのダンスの名手・舞踏王〔ナトラージュ〕シヴァとその后カーリーのステップの間にいるに過ぎない。ふたりは相変わらずRとLの真上で踊り続けているのだ。存在の大いなる連鎖は途切れてはいない。わたしは男と女について考えていたのだから、アダムとイヴにまで遡ることも決して主題からの逸脱ではない。
 カバラに足を突っ込む羽目になったのもアダムとイヴ、男と女の問題がそれ程に大きいからなのだ。どうやら、男女の問題というのは、元々途方もなく遠大でコスミックな話になる性質のものなのかもしれない。


 そら、魔術師のクロウリーさんもそうだそうだと言ってる。《すべての男女は星である》と。